相対

 この世の中にはものにしても、ことがらにしても程度の差こそあれ、ふたつの相対することから成り立っているということがいえると思います。
 速いとか、遅いとか、熱いとか冷たいとか、あるいは固い柔らかい、強い弱い、重い軽い、更に上下、左右、前後、動静、大小等々数え挙げればキリがない程であると思います。
 人の手の平にいたしましても、ひらくということ、とじるということの二つのハタラキを通じて指や腕等関連する機能を助け、しいては手の平自身の機能を全うすることができるものと思います。
 閉じるはむすぶに通じ、むすぶはほどく、とけるに通じてとけるは固まるという対象があるように、ことがら、物、状態によって変わって参りますが、このように相対することばのうちには実に大切な意味が含まれているものと思います。
 セメントは固まらなければ意味が無いのは固まることによってその働きを得ようとするからであって、心身が固まって具合が悪いのは固まることによって自由度が失われ、そのことから自他がギクシャクすることの不愉快さをまねくことにあることはいうまでもありません。
 心身を常にやわらかく鍛える人は暦の年令に関係なくいつまでも成長の途にある青年の志をもつ人といえるでしょう。
 このように固いやわらかい、開く閉じるにいたしましても安易に善悪を極めるのはややもすると自分本位になりがちでありますが、各々そのところを得ることに合致していくところに相対する性質も活きてゆくものと思います。
 合気道の稽古法にも固い稽古、柔らかい稽古とありますが、どちらも相対する自他が合致して行く為には欠くべがらざる稽古法であり共に生き、共に働くの精神の実現法であると思います。

いのちの姿

 高村光太郎は「詩は気なり、気の実なり」といったそうでありますが、詩や歌に限らず、迸ばしる程のいのちの姿をどのように捉えるかということをテーマとする限りさまざまな方面についても同じことがいえると思います。
 又、気に限らず「言霊とは折り合いをつけ乍ら自らの姿を整えること」、「言霊とは腹中にタギル血の姿をいう」と解釈した本居宣長のいう言霊にしても同様にいのちの姿を現す誠に尊いものを感じさせられます。
 第十七号で触れた「礼は天の秩序なり」という岡潔博士のことばからも枝先にポッと咲く梅の花ビラ一つに含まれる大自然のこころと人のこころの響き合うことのここち良さを認めることができます。
 即ちこの響きは秩序と調和の中にこそ保たれ、存在することに我々は気付くべきでありましょう。
 食事にしても今や過食、偏食から病気、栄養失調を生じ、日々の行いについて情報が氾濫することからかえって自主性を欠き判断を誤ることも多く振り廻される結果になり易いのも周知の通りであります。
 これらは秩序と調和への感じ方に問題が生じていることを意味していると思います。
 更にこのことは一切の行動は全て自己の心身を通じて行われることから理屈の世界ではなく実在の世界であるというところにも大切な自覚すべき点があると思います。
 「人体は小宇宙である」ともいわれます。
 気とか霊とかについてのくわしいことは解りませんが、梅の花の美しさとか、腹中にタギル血潮の赤さの働くべき本来のいのちの姿を実感することについては誰しも共通のよろこびがあると思います。
 この共通の実感をいよいよ明らかにする素晴らしい方法の一つが合気道であると信じます。
 「合気道とは言霊の妙用である」ともいわれております。

歌二首

  真砂なす数なき星の其の中に
  吾に向いて光る星あり
              正岡子親
 一瞬のいのちを永遠にいきる、とでもいうのでしょうか、実に堂々たる輝きのある歌ではありませんか。
 一滴の水、一枚の葉、一筋の光明、どのひとつをとっても計り知れないチカラや自信と希望が秘められていることを感じさせられます。
 物事はその人の考え方にもよるのでしょうが、マイナスの面ばかりをみていると結果として味けないものとなってしまうことが多いのは自身の境遇についても、ついつい不足にのみ気を執られることから本来の素晴らしい可能性を持ち合わせて居乍らその存在に気付く感性を自ら封じてしまうことによるからではないのでしょうか。
  千の薔薇に蜂来れば我王の如し
              中村草田男
 同じような句ですが、こちらも実にゆったりとしてそれでいて強い自己主張があり、又その自己というものを自我から解き放しているところに見事さを感じさせられます。
 道元師の「愛語よく廻天の力あるを学べ」といわれたことを彷彿とさせられます。
 優先され勝ちな「量」ですが、やはり「質」も大切であります。
 自他に秘められている例えわずかなと思われる可能性といえども、確実に存在する「確かな安心」を発見し、思い到り、感じ、育てることが即ち「質」であり「量」であると思います。
 合気道の稽古にいたしましても当然、この感じ、育てるという「質」も「量」も同時に求められることは云う迄もありません。

闇を照らす光

 「礼は天の秩序なり」という数学者岡潔博士のことばがあります。
 花にせよ、雲にせよ、形あるものが産まれるのは畢竟、調和であり、いのちであるという程の意味であると思います。
 このようにして産まれた形が犯すべからざる自他の区別を創造し、且つ競うこともなく己の天分を生かすということの素晴らしさを謳ったものでありましょう。
 数学について、「数学の何たるかは私にもわからない、しかし心の中にその元があることだけは確かである」といい、「その心の中でピチピチとしたものをとらえるのが数学であり」、又、一歩一歩踏み進むという学び方から、「小手先の技術の問題でなく、むしろ道義の問題であるとして、ある程度ヒトができなくては何も学ぶことはできない」、ともいい、更に、「いきいきとしたものをなつかしむ心のふるさと、という情操の世界でこそ学ぶにふさわしい」と説いております。
 春の野にひっそりと、おごれることもなく、唯咲くことをよろこびとするスミレ草の気高さを認め、「緻密さが欠けるものは一切のものが欠けることに他ならない」といい、対象となるものへの細やかな、丁寧な心くばりを欠いた粗雑さをいましめ、蓄えられ、深められてゆくべき情緒の大切さを説かれた博士も、「アンリ・ポアンカレーの『数学の本体は調和の精神である』という言葉を味わえ」といっております。
 昼行灯のように一見役に立ちそうにも思えない学問であるが、数学は「闇を照らす光」であり、「真の調和を観る力」であることを信じていたものと思います。
 合気道も全く同じだと思います。
 「調和の精神を本体とし、一隅を照らす光は本質をとらえて遅速がない」
 一見何の役に立ちそうにもないが故にこそ油断することなくくり返しくり返し行なうことが稽古であると思います。

新年を迎えて

 新らしい年を迎えて、各々が志もあらたに益々精進を重ねて暦の進む速さにも負けない様、常にあたらしい自己の発見という境地に分け入ってみたいものであります。
 省りみれば昨年は東西思想統一への第一歩が形となった記念すべき年でありました。
 一方では、統一という名のもとに戦争が勃発し地球規模で大きく揺れ動いているのは皆様もご承知の通りであります。
 多くの人々が取るべき最良の道を模索する時代がまだまだ続くのでありましょうか。
 大切とされることが自明であったとしても不自然にこだわれば調和は次の調和を求めて破れ、生じて行くものであると思います。
 当連盟も昨年、昭和五十五年七月十三日会員一号である矢澤慶樹君(当時九才)の入会以来十年の足跡を残しました。
 記すべきこれといった大きな行事もなく、ひたすらに打ち込む稽古の日々でありました。
 しかし乍ら自信をもって言えることは、十年間のこうした当連盟の姿勢が稽古を通じて、男は男らしく、女は女らしく同志一人一人の心身の内に深く広く育くまれ生成化育に寄与しているものと信じます。
 自己の外に何かを求めることも大切でありそれはそれなりに価値のあることと思います。
 同時に自己の内に新らたな発見を認めて行くことも又素晴らしいことであります。
 「合気道が自己発見の優れた法であることを知ることは言葉というものが真実ということの表現法であることを知ること」と少しも異ならないと思います。
 昨年の春風会の席上十周年に際し、文集でも、という発言もありましたがうやむやとなっていましたところ一人の寄稿がありました。
 たった一人ではありますが、是非皆様に読んで頂き度く茲に添付いたします。
 註・寄稿は平成元年十月八日入会の飯田龍三郎さんからで「行き着く先に目的があるのではなく、道程を歩むこと自体が生きている証しでは」とありました。

教と育

 何時の頃からか、人は競争原理に目覚め、学校や企業はいうに及ばず、今やその導入は社会全体の風潮となっており、そのことでかえって喜怒哀楽の大きな種をかかえる結果となっております。
 無論、努力奮闘の結果、見事選ばれた人達はそれなりの価値はあるのですが、それが単に将来の待遇や生活のためだけをめざすものであるとすると味けなく、又勿体ないことであるといわざるを得ません。
 このことは比較、競争の行なわれる実際の手段の一つとして、知識や学力の多寡を基準とする方法がとられることから、本来大切とされる気分とか、いのちとかを含めた、くり返され、積み重ねられ、育ち、養われるといった世界よりも、一過性又はそれに関連する思考法を偏重せざるを得ないという現実が優先されていることを物語っているものと思います。
 人の幸せの何たるかはむつかしいことであると思いますが、旅を例にとりましても、希まぬままに行かねばならぬ旅があり、又、望んでも行けぬ旅もあるように、不足を思う心が即ち不幸で、心楽しければ即ち幸いであるという程単純なものではないのでしょうが、少なくとも、幸、不幸はその心を有する人の感じ方にあるともいえましょう。
 一度覚えれば用の足りる技術や知識の世界では、立場上、教える側はややもすると日向のドブ板の様にソリ反り、反対に一度教わってしまえば用が足りる故に教える側の存在に意味を覚えなくなる生徒も出てこないとはいえないでありましょう。
 技術や道具も大切ではありますがそれらを使いこなす本人の心の有りようを育てることは更に大切で有ります。
 気分とか、いのちとかを含めた、くり返され、積み重ねられ、育ち、養われてゆくおこないの世界、合気道は正にそのおこないの世界の武道であります。

基本

 芸事でも何でも「基本」が大切とされますが、基本とは一体何でありましょうか。
 形のみえる「もの」と違って、「こと」がらについてのこのような問題にはいつも乍ら考えさせられることが多いものであります。
 単に字句の意味からすれば、もとのもとになる大切なことであることは容易に理解できますが、自己の心身を通じて体得して行くこととなるとなかなか容易でないことは皆様もご存知の通りであります。
 物事の本質をとらえるためには、成長し、変化し、必然をたどるその状態を、表面や、形だけにとらわれずに、その意味するところや、全体としての調和とか、うつりゆくさまを確実に、素直に認めてゆくことが必要と思います。
 技術といわれることにもこのようなことがらを一つ一つ実行してゆくための知恵の体現法という性質を有しているといえましょう。
 技術や、道具というものは本来大工さんのかんなやピアニストのピアノのように使う人の技量や、心のありようによって結果がおおいに異なるものと思いますし、又、知識にいたしましても単に識り得たということからすればそれで済む性質のものでしょうが、人が生きてゆくのに要求される食事にしても、酸化、還元、睡眠等々も、常にくり返され毎日毎日の積み重ねによって成長も変化もあるという性質を有します。
 成長とは必然の達成であるとも言えましょう。
 このようにして、必然から生じ常に新たなる応用、変化の達成に連らなるところに即ち基本ということの意味があるものと思います。
 いつまでも、どこまでも、限りなき修業に基本の卒業がないのは合気道に於いても全く同じでありましょう。
 基本技がそのまま極意技とされる由縁でもあります。

鍛練

 「人はまことの源泉たれ。」と古人のおしえにあります通り、人はさわやかにしてたのしく、なつかしく有り難く思うこころそのままに生き生きといきぬくことができれば理想ではないでしょうか。
 「まこと」とはこのように生きる人の「こころ」をいうのではないでしょうか。
 礼に始まり、礼に終わるのは、ひとり武道の世界だけではないと思います。
 「おじぎ」にいたしましても、対座する人を通じて、自他がこのようにかかわり合えることへの感謝そのままのまことが形に現れるものと信じます。
 さらに興味深いことは生きとし生ける全ての人々に共通して、真なるもの、善なるもの、美なるものの存在を心良く思う気持に変わりがないという事実であります。
 今迄にも度々触れてまいりましたが、「ことば」の働きにいたしましても、言葉が単に口から発せられる音声だけ、小手先だけのものでなく、事実とか、人の心の真なるもの、真理、法則そのままである故に大切とされるものと思います。
 言葉はそれ自身がまことであるといわれる由縁でもあります。
 このように自己を超越し、生かすところのちから、その真理、法則に添うために為すべき使命が即ち鍛錬であります。
 鍛練とは自己の解放であります。
 自己の解放とは本当の自分の発見であります。
 本当の自分の発見とは、自分を含めたあらゆる存在を素直に認めるということだと思います。
 これら「真理、法則」即ち「道」の存在から少しも外れることがないように心掛けるところに厳しさというものがあるのだと思います。
 合気道の稽古にしても、単に形のある相手の存在を意識するものでなく、時間や、空間さえも同化させる程の勇気が必要であるとおもいます。

インドネシア

 皆さんはインドネシアという国をご存知でしょうか。
 小生は全くの予備知識もなく、所用で昨年十一月から今年の始めにかけて、それぞれ一週間程度のほんの短い期間ですが、二度にわたり同国の首都であるジャカルタを訪問する機会がありましたので簡単に報告申し上げます。
 スマトラ、ジャワ、カリマンタン、スラベシ、イリアンジャヤの各島を中心に大小おおよそ千の島々から構成されるインドネシアは、その東西の距離は北米大陸の巾に匹敵し、自国内の時差が二時間もある大国であります。
 人口一億七千万人の約九割が世界最大の数を誇る回教徒であるといわれ、人々は親切で、優しく、治安も良く、一度この国を訪れた人は誰でも好きになると云われているそうであります。
 気温は常時三十度を超える暑さですが、人々の表情は明るく、街はいたるところで建設が行なわれ、活気に満ちており、市内では東京なみの混雑の中、人がこぼれおちそうになる程の満員バスがドアを開けたまま走り、一台のバイクに乗った家族四人が、信号の少ない広い道路を先をあらそうように走る車と車の間でもまれる姿は一驚に値します。
 又、その間を縫うようにして、瞬時の停車にスーと寄って来ては新聞等を売り歩く、ハダシの少年と老婆、そして肢体の不自由な人達、それらの人々に車内から静かに首を横に振る時は流石に複雑な気持になりました。
 インドネシア人には「頑張る」という言葉がなく、又「野望を持だない」ということも聞きました。
 本当にそうなのでしょうか、日本の人気テレビ「おしん」が異常な人気を呼んでいるのは何故なのでしょうか。
 風邪を引いても死の危険があるといわれる程の抵抗力のなさや、自然に生きる知恵からか、無理をしない彼等の歩く後姿から合気道を学ぶ者の一人として非常な興味をおぼえたことを結びとします。

歩く

 人間の身体の働きの一つに「歩く」という動作があります。
 歩き方には、その時々の心身の情況による違い、体形による違い、地形による違い、年令による違い等々、いろいろな歩き方があると思います。
 いずれにしても、歩くという動作は、前に進もうとする意志と、崩れ落ちようとする体重を両足で支えるといういのちの働きによってはじめて可能な動作であるといえます。
 例えば、前に進もうとして右足を一歩踏みだし、次にその上に上半身を載せ、上半身が右足の上に乗った時点で左足を踏み込み、更に上半身を左足の上に移す、つまり、足の上に上半身が遅れて移動するような歩き方は何んとなくギクシャクするものであり、進もうとする気持を先行させ、体の重心の静かな移動に対して、上半身を支える為にやむを得ずに足が前に出ることが足本来の働きを効率よく活かし、且つ、腰、膝を中心に振り子のようになめらかなリズムをとることによって合理的な歩き方が可能となります。
 歩行は地球の引力の存在によって始めて可能な動作であります。
 この引力と調和を取る為にはいのちの働きが必要であります。
 したがって歩行といえども単に足腰の働きだけで行なわれるものでもなく全身全霊の関与する行ないであるといえましょう。
 このことは人間の動作の全てについていえることだと思います。
 合気道の不断の稽古についても、単純な動作の一つ一つに誠を尽くし、いのちの働きが形となって産まれてくる様な鍛錬を重ねることが必要とされます。
 故に演武会等でも、その人の一挙手一投足をみればおおよその技量の見当がつくとされている由縁であります。
 何はともあれ、おおいに歩きましょう。