柔軟な心

 言葉や行為が他へ与える影響には計り知れないものがある。
 受け取る側の感性や人格に拘らず何人と云えども無視するわけには行かない。
 この当然なことが良く理解できていないとさまざまな問題が生じる。
 例えば、当方の考えは「こうであるべきだ」「こう思っているのに」等と固定した場合、「どうしてそうなんだ」と、相手を問い詰めたり(詰めることは息を詰めるに通じ、本来気分が良くない)ややもするとひどく叱ったり、時には傷つけたりすることにもなる。
 このことはまるで平らな路面の上を多角形な車輪で走る様なもので常に気分の良さを感じることもなく、むしろそのまま続くといつかは破滅に通じることを知るべきであろう。
 無論、時には心底から叱る事も必要であろうし、責める事の善悪をとやかくいうのではない。
 大切なことは、「自分」の意見、即ち判断力、価値観といったものも又他から影響を受けて常に変化し、成長するものであり、どうあれば「さわやかである」かを「自他」が共に調和する迄に耐えられる「柔軟な心」を鍛えることと思う。
 人の話を良く聞いてくれる人と話をするのは気分がよい。
 人の話をハジキ返すばかりの人は気の毒だ。
 いずれにせよ叱られて息が詰まっても、誉められて気分が良くなっても、その都度人間の生理と心理の深層に作用していることだけは間違いのないことでありましょう。
 相手の立場に立てる人とは、その人を受け入れ、認め、肯定することから出発できる人を云うことだと思う。
 叱るにせよ、誉めるにせよ、自他に一体感があればこれ程安心なことはない。
 合気道はこれらのことの一切の原理を学べと教えてくれている。

中心

 ヒトのカラダは手足や、目や耳のように一見して独立しているように見える異なる部分の存在や働きによって全体が構成され、絶えず機能するところに全体としての中心が存在する。
 このことは中心とはすべての部分を含み、すべての働きを認めるものであることを意味し、固執や歪みがある時には必ずいずれかに偏り、心身の病の元ともなる。
 物事の本質を見据える場合でも同様で、様々な角度からあらゆる反対、矛盾し合う部分と働きの違いというものを重ね、連ねてはじめて、有るがままの本来の姿がみえてくるものと信じる。
 この重ねあわせ連ねあわせることが即ち「心身は本来一如」をいよいよ自覚することでもあり、あらゆる存在と調和する大自然の心を実践することでもあろう。
 人の音声も又、光の働きである「時間」を経由させることによってその内なるまこと(真事、誠、命)が顕われてコトバとなる。
 中心とは「うちなるこころであって片寄ることのない全一」を言う。
 言葉とは「ヒトから発するいのちそのもの、タマシイそのもの」を言う。
 「愛語よく廻天の力あるを学べ」と言われた道元師の言葉は本当に大切なことであり、「言葉」や「呼吸」というものの「チカラ」がモノゴトの本質を「有るが故に有らしめる」ことを合気道は如実に教えてくれている。