しかられる

 「人間四十歳を過ぎると人にしかられることがなくなるでしょう。」
 先月紹介した小川誠子さんが大先輩の女流棋士から聞いたことのある言葉であります。
 これには続きがありまして、「けれどもね、おこられなくなると碁の方からしかってくれるんですよ。」と教えられたそうであります。
 真理深求に生きる人の当然といえばそれ迄ですが流石ともいえることばであると思います。
 似たような話はよくきかれると思います。
 三日休めば観客に知れ、二日休めば相手に分かり、一日休めば自分に判るといわれるのはひとり演劇の世界だけではないと思います。
 自然の摂理を何等かの方法で具現しようとこころみる人の共通のことかも知れませんが、自分の我や、作為といったものから働きかけてことが成る程単純なものではないということだと思います。
 「例え七歳の童子であっても我より勝るならば我、彼に問うべし」といった趙州和尚は十七歳にしてすでに悟りを得、六十歳のときにこういって修業の旅に出たそうであります。
 尤も相手が劣であれば例え百歳の老人であっても教えるともいっております。
 これからは老人社会になるといわれておりますが、年令に関係なく誰でも真理の前には素直であるべきでありましょう。
 百歳を無為に過ごす人はいないと思いますが、敬うべくして尊ばれるような歳を経て行きたいものであります。
 合気道の技の世界にしても技は我によって成る程単純なものでもなく、やはり真理による自他融合の発露であるべきであると思います。
 故に、倦むことなく行ない油断なく修めることが大切でありしかられているということにしても結局は自他を受け入れる器量が即ちそのことに気付くか否かをも左右しているものと思います。