言葉 二

 「人間は言葉、言葉は人間です」といった人がいます。
 石川九楊さんという書家であります。(「語る」石川九楊の世界、朝日新聞)。
 石川さんに限らずそのように思考し、本質を見定めようと創意工夫する人は多いと思います。
 先日の鹿島での合宿の折に渋川義彦さんから興味深い話を伺いました。
 それは最近「何げない生活」ということについて考えている、ということでありました。
 何げないと思えることの底に潜む世界に光を当てゝみたいということだと思われますがいつか又その時の話の続きを聞かせて頂きたいものであります。
 渋川さんも又日々思考し、物事の本質を見定めようと創意工夫する一人でありました。
 「故郷は出るもの、親は捨てるもの」と石川さんはいう。
 捨てる、ということばをそのまゝ受け容れるにはさすがに抵抗はありますが、厳しさと、優しさ、ということにしましても相矛盾する関係のハザマには限りない糸筋があるようにも思えます。
 愛語よく廻天の力あるを学べ、といわれた道元も愛語は愛心より起り、愛心は慈心を種子とせりと教えています。
 この種子を己れの心にまき、育て、花園を持つところに明るい言葉の源が産まれるのでありましょうか。
 言葉は命(ミコト、マコト)を源とするが故に行ないとなって外に顕われるものであります。
 即ちコトバはヒトでありヒトはコトバであるということに通じるわけであります。
 このことは行ないの本質を見定めるということについて大切なことであります。
 合気道におきましても内なる誠が外に現われるが故に、内なる誠を練って練って練り直して精進せよとの教えがあります。
 「言霊とは腹中にタギル血の姿をいう」とは、何げない生活になげかける一筋の光であると信じます。