紙一重

 尻尾を踏まれてギャーといった猫に対して「シッポを踏まれた位でギャーギャーいわないの」とたしなめたという家内が、少し後になって自分の足が噛まれていたことに気付いたそうであります。
 家族同様の飼い主に対してでもあり、加減して噛んだにしてもそのことに気付かずに猫をたしなめた家内の余裕にはホトホト感心させられました。
 噛まれたことに気付かぬ鈍感な部分と、大きく包み込む寛容な部分と、噛まれることによって生じる恐怖心や怒りの部分と、反面鋭敏な部分と、善悪のことは別にして、このような日常のほんのささいなことがらからも体験する個々人によって受止め方にはさまざまなものがあると思います。
 呼く吸う、は無論のこと、上下、左右、前後、喜怒、哀楽といった数え挙げればキリのない相対するさまざまな「はざま」にあって人々は生かされ、活動していることは事実であります。
 このような日常生活の中にあっても寛容、辛辣、鈍感、鋭敏といった端のみに思いを偏らせることなく、端自体も固定されたものでもない位に考えて、自由で且つ自在でありたいものであります。
 道具のような物でも、用と働きが異なれば、例えばヒゲ剃りに鉈は不向きなように、薪割りにもカミソリは適さないようなものであります。
 人の心の持ちよう、在り方、考え方にしてもその時々に求められる用いられ方とその働き方が大切であると思います。
 用と働きの差がわずか紙一重であっても全く異質の結果が生じるように思います。
 合気道にあっても、稽古や日常生活を通じて、このような相対する世界、異質の世界を良く見定め、理解し、身に付けることによって自己を深め、成長させて行くものと信じます。