心の太鼓

 将棋の金子金五郎さんは、「我身を忘れて没入する程の愛がなければ上達することはできない。」といっておりました。
 プロの世界の話ではありますが、芸の上に限らず、上達とか深さ、強さを追進して行こうとするならば当然のことであろうと思います。
 愛の何たるかはわかりませんが、我身を忘れることができる程打ち込めることそのことがすでに愛の世界といえるかも知れません。
 金子さんは更に「心と技が別々であれば強くなれないし、手を読むこともスムーズには行かず、駒の動きと我が心の対立が否定されて純粋となる。
 そんな時は他人がどういおうと将棋に夢中だ。」(この心あながちに切なるもの。晩聲社)といっております。
 つまりこの場合は盤面と自分とが交流し、感応し合う世界をいっているのでありますが、このことは人の行動の中の基本となる大切な世界の一つであると思います。
 目に見え、手に触れることができるこの世の実在する物の全てに、過去と現在と未来の三世があって、更にそのものが生命を有し、現在あるいのちの全てが過去から成り立つことから感謝の念も生じ、現在はそのまま未来への希望の姿であると考えられはしないでしょうか。
 刻々と移る現在のさまざまな事情々実が過去の心の栄養として自己を生長させる知恵が人にはあると思います。
 人はそれぞれ心に太鼓を有していると思います。
 その太鼓を打つ人、打たれて響くその響きが山彦となって打つ人の琴線に触れる時、いいようのない打ち震える程の感動を呼ぶ事は体験したもののみが味わうことのできるよろこびの世界であります。
 合気道の世界にあっても、現わされる技は触れる人の心の太鼓を響かせるに充分な真の力を有するものでありたいと思います。