「真中ということは片寄ること無く一切の端を含み持っている事」と教えられている。
端の「は」は文字通り木の葉、布の端、山の麓、鋸の刃、身体の歯、の様に中心に属しつつ、無くてはならない幹の延長である。
「言葉」は同じ意味で人の誠の現れ故に大切とされる。
あのゴツゴツとした桜の幹から延びた枝の先にも、春になるとパッと開く桜花に例えれば、それぞれの姿、形こそ違え、幹と枝と、花のいずれをとっても桜であり、又、そのいずれを欠いても桜とは成り得ない。
ヒトの社会やモノゴトについても、上下、前後、左右、大小、強弱、濃淡、明暗、呼吸等々といった相対するこれらの関係が厳然として存在するのがこの世の中であるが、これらのいずれについても一部分としてとらえるのではなく、一切を受け入れてこそ自分が生きると知るべきであろう。
道元師のことばにある「自己を運びて万法を修証するを迷とし、万法進みて自己を修証するは悟りなり」とある通りである。
真実を自分の都合であれこれと推し計ればどうしても排他の部分が生じる。
合気道を学ぶ者にとって、「中心を捕らえる」ことは「全体を捕らえる」ことに通じ、捕らえたり抑えたりすることは同時に相手を活かすことに通じるものと思う。
「年毎に咲くや吉野の桜花
樹を割りてみよ花のありかを」
この詠み古された歌の教えは尊い。