【佐倉合気会会報】2020年9月(抄)

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【佐倉合気会会報】2020年9月(抄)
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 新型コロナ・ウイルス感染拡大防止のため、徒手の稽古ができなくなって約半年がたちました。
 コロナ・ウイルスの問題が落ち着くまでまだ少し時間がかかりそうですが、体力の維持を図るとともに、技の確認や学びを心掛けてゆきたいものです。
 
 佐倉合気会では、新型コロナ・ウイルス感染防止のため、しばらくの間、見学・ビジターは受け付けない(新規入会は受け付けています)、稽古は体の接触を伴わないものとする、マスク着用とするなど、特別の対応をとることとしています。
 また、稽古の内容については、去る8月8日(土)の理事会において、「10月ぐらいまではなるべく接触を伴わない稽古により合気道を掘り下げてゆく」こととしました。
 現在の稽古内容(準備運動、合気道の動き、杖の単独稽古等)について変更があれば、メール及びホームページなどによりお知らせします。
 
 稽古時間は、(1)日曜日は時間帯を変更し午前10時~12時、(2)火曜日は午後7時~9時ですが、現在体育館の利用時間は午後5時までと制限がかけられているためその解除待ち(9月末まで制限延長が確定)、(3)土曜日は午後3時~5時となります。
 マスクの着用、発熱・咳等の症状があれば出席を控える、手洗いの徹底をお願いします。
 なお、体育館では、引き続き更衣室の利用禁止、下駄箱の利用制限(靴袋を持参)が行われていますので、ご注意ください。
 11月末までの体育館の予約が確定しました。
 稽古定例日とお休みの有無は、次のとおりです。

 【9月】
 9月1日(火)お休み(体育館の利用時間制限のため)
 9月5日(土)
 9月6日(日)
 9月8日(火)お休み(体育館の利用時間制限のため)
 9月12日(土)
 9月13日(日)
 9月15日(火)お休み(体育館の利用時間制限のため)
 9月19日(土)
 9月20日(日)
 9月22日(火)お休み(体育館の利用時間制限のため)
 9月26日(土)
 9月27日(日)
 9月29日(火)お休み(体育館の利用時間制限のため)

 【10月】
 10月3日(土)
 10月4日(日)お休み(佐倉市民空手道大会のため)
 10月6日(火)(利用時間制限の解除待ち)
 10月10日(土)お休み(佐倉秋祭りのため)
 10月11日(日)
 10月13日(火)(利用時間制限の解除待ち)
 10月17日(土)
 10月18日(日)
 10月20日(火)(利用時間制限の解除待ち)
 10月24日(土)
 10月25日(日)
 10月27日(火)(利用時間制限の解除待ち)
 10月31日(土)

 【11月】
 11月1日(日)
 11月3日(火)(利用時間制限の解除待ち)
 11月7日(土)お休み(佐倉市事業のため)
 11月8日(日)お休み(佐倉市事業のため)
 11月10日(火)お休み(佐倉市職員健康診断のため)
 11月14日(土)
 11月15日(日)
 11月17日(火)(利用時間制限の解除待ち)
 11月21日(土)お休み(佐倉市事業のため)
 11月22日(日)お休み(佐倉市事業のため)
 11月24日(火)お休み(休館日のため)
 11月28日(土)
 11月29日(日)

○2020年度定期総会の結果について
 佐倉合気会の2020年度定期総会は、新型コロナウイルスの感染拡大防止・三密回避のため、集まることをやめ、案件についての賛否を書面で提出していただく方式で行いました。
 7月末の締切後、賛否を集計したところ、24名の方から文書の提出があり(定足数16名:現在会員32名の2分の1を満たします)、(1)2019年度活動報告、(2)2019年度決算、(3)2020年度活動計画案、(4)2020年度予算の4件は、いずれも全会一致をもって承認されました。

○動画ライブラリの貸出方法について
 佐倉合気会では、山根先生のご指導を中心に、動画をDVD等に保存し、会員への貸し出しを行っています。保有する動画の一覧は、ホームページに掲載しています。
 貸出を希望する会員は、予め視聴を希望するものを決め、担当者までお知らせください。稽古の際、道場にてお渡しします。

*** 山根政行著「へちまの葉」(p100~101)から ***
   「声と音」
 分け入っても 分け入っても 青い山
と詩った漂泊の俳人、種田山頭火。
 捨てても捨てても捨てきれぬ自分、払っても払っても払いきれぬ自分、徹底しても徹底しても徹底しきれぬ自分の心を正直にうたい続けた旅の俳人でもありました。
 生き方がそのまゝ作風となっている感があります。
 「生きているよろこびを知るならば生かされているありがたさを忘れてはならない。
 ありがたさがもったいなさとなるとき、そのときがいのちにぴったり触れた時だ。」というような意味のこともいっております。(山頭火「句と言葉」春陽堂)
 真に渇いた者であれば一滴の水もいのちの水となり、真に寂寥を知るものであれば木の葉の落ちる音がこころの奥深いところに響き届くことでありましょう。
 山頭火は五十三才位の頃でありましょうか、「音響を声と観られるようになった。」といっております。
 つまり、「音が心にとけるとき、心が音をとかすとき、それは音でなくして声となる。」
 さらに、「その新らしい声を聴き洩らすな。」といっております。
 よくいわれることでありますが、使命はいのちを使うこと、運命はいのちをはこぶこと、どちらも漠然としており、まるで偶然のようなことのように思えますがさにあらず、実に生々しい現実であろうと思います。
 いのちに関していえば、こころとからだが離れ得ぬのと同じであるからであります。
 音と心と、心と声と。
 物から生じる音が心の世界にふれて声となる。
 はたしてその結び目はいったいどこにあるのでしょうか。
 こころとからだの結び目はいったい何処にあるのでしょうか。
 合気道の稽古の眼目も実はこの点を明らかにする作業のように思えてなりません。
 いのちを使い、いのちを運び乍ら。