【佐倉合気会会報】2019年11月(抄)

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【佐倉合気会会報】2019年11月
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 例年にない台風、大雨により、佐倉市内では多数の浸水被害が生じました。
 被災された方々に対し心からお見舞い申し上げます。
 今月も稽古を通じて心と体を整えてまいりましょう。

 2020年1月末までの市民体育館の予約が確定しましたので、稽古日をお知らせします。
 稽古の定例日は、日曜、火曜、土曜で、時間は、日曜が午前9時30分より午後零時30分(午前11時30分以降は希望者に対する剣杖の特別稽古)、火曜が午後7時より9時、土曜が午後3時より5時となっています。
 稽古日、お休み、課題は、次のとおりです。
 佐倉合気会では、まず基礎の技(入身投げ、四方投げ、第一教、呼吸法)とともに、基本技(天地投げ、回転投げ、小手返し投げ、第二教~第五教)を重点的に稽古します。
 さらに、合気道の技をより深く修得するため、週単位で課題を稽古します。

 【2019年11月】
 11月2日(土)後ろ両手取り
 11月3日(日)後ろ両肩取り
 11月5日(火)後ろ両肩取り
 11月9日(土)お休み(佐倉市生涯スポーツ課事業のため)
 11月10日(日)お休み(渡邉道場(空手)使用のため)
 11月12日(火)後ろ片手取り首締め
 11月16日(土)後ろ片手取り首締め
 11月17日(日)後ろ両袖取り・後ろ両肘取り
 11月19日(火)後ろ両袖取り・後ろ両肘取り
 11月23日(土)後ろ両袖取り・後ろ両肘取り
 11月24日(日)呼吸法・天地投げ
 11月26日(火)呼吸法・天地投げ
 11月30日(土)呼吸法・天地投げ

 【2019年12月】
 12月1日(日)第一教
 12月3日(火)第一教
 12月7日(土)第一教
 12月8日(日)第二教
 12月10日(火)第二教
 12月14日(土)第二教
 12月15日(日)第三教
 12月17日(火)第三教
 12月21日(土)第三教
 12月22日(日)第四教
 12月24日(火)第四教、稽古納め
 12月28日(土)お休み(年末のため)
 ※12月29日(日)から1月3日(金)までの間、佐倉市民体育館は年末年始の休館となります。

 【2020年1月】
 1月4日(土)稽古始め、第四教
 1月5日(日)第五教・短刀取り
 1月7日(火)第五教・短刀取り
 1月11日(土)お休み(佐倉市地域創生課事業のため)
 1月12日(日)お休み(佐倉市地域創生課事業のため)
 1月14日(火)入身投げ
 1月18日(土)入身投げ
 1月19日(日)お休み(柔道協会鏡開きのため)
 1月21日(火)四方投げ
 1月25日(土)四方投げ
 1月26日(日)小手返し、鏡開き
 1月28日(火)小手返し

○行事等の予定
・11月1日(金)から3日(日)までの3日間、日本武道館研修センター(勝浦市沢倉)において第7回全国合気道指導者研修会が開かれ、千葉県連代表として三浦史明会長が参加します。
・11月2日(土)、3日(日)、千葉県総合スポーツセンター武道館において第14回千葉県地域社会合気道指導者研修会が開かれます。講師は本部道場の小林幸光師範、合気道館小倉台道場の岡本昇氏、柏合気会の宮等氏です。
・11月24日(日)、千葉県総合スポーツセンター武道館において、千葉県合気道連盟主催の研修大会が行われます。時刻、内容等の詳細は、道場にてご案内します。どうぞご参加ください。
・12月22日(日)午後4時から概ね午後7時まで、佐倉合気会納会を行います。場所は、山根夫人マンション(京成佐倉駅南口から徒歩1分)。会費は男性3,000円、女性2,000円、学生無料です。皆様ご参加ください。
・1月26日(日)、新年の鏡開きを予定しています。

*** 山根政行著「へちまの葉」(p82~83)から ***
   「力量の世界」
 針の穴を駱駝が通る。ということを聞いたことがあります。
 もちろん実際に通れるものではありませんが現実にあの小さな針の穴をらくだが通れるなどとは考えただけでも楽しくなります。
 人の考え方の斬新さには誇りすら感じさせられるものがあります。
 川上哲治さんや王貞治さんクラスの人になるとボールがベース上で止まって見え、且つ糸の縫い目迄見えたと聞いたことがあります。
 針の穴にしても、ボールにしても凄い話とは思いますがいずれも実感として実現させるだけの力量を有していればこそであり、当然といえばそれ迄のことであります。
 時速二百キロメートルで疾走する車に同じ速度で並走することができれば相対的に止まっていると感じることができるからであり、復元力を持たない不備は限りなくその不合理を拡大されて行く可能性があるからであります。
 しかし乍ら、時速二百キロメートルで並走すること、即ち相手と同じ速度に合わせるということは容易なことではありません。
 又、自他の不備、不合理を感じること自体力量を要するものであり、更に不合理を合理ならしめる為の力量となれば一朝一夕に成るものとも思えません。
 三種の神器とされる鏡、剣、玉の三つにしましてもそれぞれ調和を感じとる力、調和を実現させる力、調和そのものに価値を認める力を象徴しているものと解釈いたします。
 何キロの重さを持ち上げるというようなベクトル的な力は理解し易いものでありますが、変化し生き続けるいのちのちからの世界にあっては油断ならないものがあります。
 いずれにしましても、バランスはアンバランスの存在によってこそ感じることができるものであります。
 正しきを正しきまゝにとどめずますます正しかれと願う力量の養成が合気道の稽古の中にはあるように思えてなりません。

【佐倉合気会会報】2019年10月 (抄)

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【佐倉合気会会報】2019年10月(抄)
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 稽古の汗が気持のよい季節を迎えました。
 体も心も伸び伸びと稽古を続けましょう。

 2019年12月末までの市民体育館の予約が確定しましたので、稽古日をお知らせします。
 稽古の定例日は、日曜、火曜、土曜で、時間は、日曜が午前9時30分より午後零時30分(午前11時30分以降は希望者に対する剣杖の特別稽古)、火曜が午後7時より9時、土曜が午後3時より5時となっています。
 稽古日、お休み、課題は、次のとおりです。
 佐倉合気会では、まず基礎の技(入身投げ、四方投げ、第一教、呼吸法)とともに、基本技(天地投げ、回転投げ、小手返し投げ、第二教~第五教)を重点的に稽古します。
 さらに、合気道の技をより深く修得するため、週単位で課題を稽古します。

 【2019年10月】
 10月1日(火)肩取り
 10月5日(土)肩取り
 10月6日(日)肩取り正面打ち
 10月8日(火)肩取り正面打ち
 10月12日(土)お休み(秋祭りのため)
 10月13日(日)突き・短刀取り
 10月15日(火)突き・短刀取り
 10月19日(土)突き・短刀取り
 10月20日(日)袖取り
 10月22日(火)袖取り
 10月26日(土)袖取り
 10月27日(日)後ろ両手取り
 10月29日(火)後ろ両手取り

 【2019年11月】
 11月2日(土)後ろ両手取り
 11月3日(日)後ろ両肩取り
 11月5日(火)後ろ両肩取り
 11月9日(土)お休み(佐倉市生涯スポーツ課事業のため)
 11月10日(日)お休み(渡邉道場(空手)使用のため)
 11月12日(火)後ろ片手取り首締め
 11月16日(土)後ろ片手取り首締め
 11月17日(日)後ろ両袖取り・後ろ両肘取り
 11月19日(火)後ろ両袖取り・後ろ両肘取り
 11月23日(土)後ろ両袖取り・後ろ両肘取り
 11月24日(日)呼吸法・天地投げ
 11月26日(火)呼吸法・天地投げ
 11月30日(土)呼吸法・天地投げ

 【2019年12月】
 12月1日(日)第一教
 12月3日(火)第一教
 12月7日(土)第一教
 12月8日(日)第二教
 12月10日(火)第二教
 12月14日(土)第二教
 12月15日(日)第三教
 12月17日(火)第三教
 12月21日(土)第三教
 12月22日(日)第四教
 12月24日(火)(調整中)第四教
 12月28日(土)(調整中)第四教

 ※12月29日(日)から1月3日(金)までの間、佐倉市民体育館は年末年始の休館となります。

○行事等の予定
・11月2日(土)、3日(日)、千葉県総合スポーツセンターにおいて第14回千葉県地域社会合気道指導者研修会が開かれます。講師は本部道場の小林幸光師範、合気道館小倉台道場の岡本昇氏、柏合気会の宮等氏で、参加資格は初段以上です。
 10月15日(火)締切です。可能であればできる限りご参加下さい。

*** 山根政行著「へちまの葉」(p80~81)から ***
   「声よ 光よ」
  声よ光よ 澄み澄み亘れ
  細むとも 撓むとも
  底なき底の声ならば
  先なき先の先までも
  照らす光の声となれ  (春 風)
 世俗のかせから解き放たれた自分が新らたな創造の世界に入って行くことはこの上もなく楽しいことであります。
 新年を迎えて皆様は如何にあるべきか、どのようにありたいか、さまぎまなことを思い浮かべておられることと思います。
 小生も近年、時につけ折に触れ感じることがいくつかありますが、なかでも印象的なことは、人の動作の基本の内には意志と言葉が語り掛ける「声」の部分があることに気付いたことであります。
 部分というよりも全てといっても言過ぎではないかも知れません。
 ことばは「心とからだを結ぶ」といわれておりますが正にその通りのように思います。
 動作が人の意志の現われであるとすれば目にみることのできない幽の世界がことばとなり声となって顕われてきたものと考えられるからであります。
 「行くぞ」「どうぞ」、「来るな」「いやだ」、といった具合に意志が声となり、動作となって現われてくるからであります。
 顕幽、表裏、呼吸といった世界、相対する世界、この中にあって始めて人は座ることも、立つことも、歩くこともできることを知るべきであります。
 光を考え続げたアインシュタイン博士の「単純なものほど美しい」といったことばは合気道にも通じるものがあると思います。
 即ち、底なき底の声を、先なき先に現わす為にも余った部分を切り捨て、濁った部分を浄化して行くといった作業が日々の稽古を通じて行われているからであります。
 今年も良い年でありますように。

声よ 光よ

  声よ光よ 澄み澄み亘れ
  細むとも 撓むとも
  底なき底の声ならば
  先なき先の先までも
  照らす光の声となれ  (春 風)
 世俗のかせから解き放たれた自分が新らたな創造の世界に入って行くことはこの上もなく楽しいことであります。
 新年を迎えて皆様は如何にあるべきか、どのようにありたいか、さまぎまなことを思い浮かべておられることと思います。
 小生も近年、時につけ折に触れ感じることがいくつかありますが、なかでも印象的なことは、人の動作の基本の内には意志と言葉が語り掛ける「声」の部分があることに気付いたことであります。
 部分というよりも全てといっても言過ぎではないかも知れません。
 ことばは「心とからだを結ぶ」といわれておりますが正にその通りのように思います。
 動作が人の意志の現われであるとすれば目にみることのできない幽の世界がことばとなり声となって顕われてきたものと考えられるからであります。
 「行くぞ」「どうぞ」、「来るな」「いやだ」、といった具合に意志が声となり、動作となって現われてくるからであります。
 顕幽、表裏、呼吸といった世界、相対する世界、この中にあって始めて人は座ることも、立つことも、歩くこともできることを知るべきであります。
 光を考え続げたアインシュタイン博士の「単純なものほど美しい」といったことばは合気道にも通じるものがあると思います。
 即ち、底なき底の声を、先なき先に現わす為にも余った部分を切り捨て、濁った部分を浄化して行くといった作業が日々の稽古を通じて行われているからであります。
 今年も良い年でありますように。

 「道というのは、丁度、体内に血が巡っているように、神の大み心と全く一つになって離れず、大み心を実際に行じていくことをいうのである。
 神の大み心を少しでも離れたら、それは道にはならない。」合気道開祖、植芝盛平翁のことばであります。
 道といえば、画家である林武の著書、「国語の建設」という本の中に興味深いことがありました。
 それは、「みち」は「みうち」(真中)から転じ、道になり路となった。と、示されていたことであります。
 道ということの本義が、真中(みうち)、即ち、真事(まこと)、命(みこと)に連なるという理解のしかたに本来の意味があるというところに我が意を得た思いがいたしました。
 会報第三号で申し上げました、「真中ということは片寄ることなく一切の端を含み持つ。」ということ、又、第十四号にありました、「人はまことの源泉たれ。」といった古人の教えが改めて思い起こされます。
 これらの教えには、言葉や意識の奥には存在し、行じている貴重な世界のあることを示しているように思います。
 日常生活にあっては、自我の意識が行ないの舵取りをするために、いいかげんな言動になり勝ちであります。
 しかし乍ら、行ないのさなかにあること、そのことは、泥中から蓮華が咲き、食がいのちの鎖となるように、種々ある事情々実があってこそ、花も実もある人生と云えはしないでしょうか。
 冒頭の「道とは神の大み心を実際に行じてゆくこと。」と示された言葉には、人の生き方への一つの指針を与えてくれるものがあるように思えてなりません。
 このような考え方に思いを深くさせて載ける合気道と、その同志の存在に対して改めて感謝する次第であります。

問いかけ

 俳句の細見綾子さんという方が、朝日新聞の「余白を語る」欄に紹介されておりました。
 俳句の初心の人に、「ものをひねくっちゃいかん、純真にみたまゝを表現しなさい。」とよく言われるそうであります。
 一見つまらなそうな写生にもその人の力量によって深さ、浅さがあります。といっております。
 この細見さんが、自ら求めて引っぱり寄せてきたものが、年をとるにしたがって向こうがわたしをみつけてくれるような気がしだしたといゝ、朝起きても、鳥が鳴いても、花が咲いても、新鮮になって。といっております。
 これらのことばには生きて行く意味のようなものを教えられる思いがいたします。
 自己をはこびて万法を修証するを迷とし、万法すすみて自己を修証するは悟りなり。と示された道元師の世界をまのあたりにする思いであります。
 歌手の都はるみさんが、カムバックの後、楽しそうに歌えることについて、「以前は歌に追われ、廻りを気にし乍ら歌わされていたのが、最近は歌が自分を選んでくれて、歌わせてくれている様に思えて楽しく歌えるようになりました。」という意味のことをいっております。
 これも細見さん同様に素晴らしい心境であると思います。
 ことばは単に人の音声だけではなく実在するものゝ全てが有する愛護の精神の働き掛けのやりとりであるような気がします。
 合気道にあっても切られる所、打たれる所を知って初めて切ることも打つことも可能になり、締めるべくして締め、ゆるめるべくしてゆるめて行く呼吸が技の肝要かと思います。
 相手の問いかけをいかに素直に、純真に聞くことができるか、いいかえれば稽古とはその為の修練の場でありましょう。
 素晴らしい心境も力量なしにはあり得ないことはいう迄もありません。

理解

  かぜとなりたやはつなつの  かぜとなりたや
  かのひとのまえにはだかり  かのひとのうしろよりふく
  はつなつのはつなつの  かぜとなりたや
 「棟方志功はこの一点を見て版画を志した。」と川上澄生のこの素晴らしい詩の紹介が「折々のうた」(朝日新聞)にありました。
 同じ詩をみても人の受取り方にはさまざまなものがあると思います。
 生々しい体験には生命に限界があるように範囲の限界がありますが、この一見有限と思われる生命も実に脈々と受げ継がれてきたように無限の方向に進もうとする優れた性質を有しているのも又人のおもしろい一面であると思います。
 心身ということについて考えさせられる由縁でありましょうか。
 人の素晴らしいところは否定や誤解があったとしてもそれらを乗り越えて、まるで体内の血流を助ける血管が血流そのものゝ血液によって柔軟さを保ってゆけるように、人には今の状態を少しでも広がり深め続けたいと願う性質を有しているものと信じます。
 今迄と、今と、そして今からと、この三世を貫き通す考え方こそ理解されて然るべき原理の一つのように思います。
 常に自らの感性を固定することなく自由に解き放ち乍ら、広げ深め、未熟は未熟なり、練達は練達なりに理解して行なえばそれでよいと思います。
 合気道に於げる原理や技法の理解ということについても、自明の原理や法則のようなものゝ働きを日々の稽古を通じてしっかりと己れの心身に喰込ませることが即ち理解ということに連がることであると思います。
 しかし乍らこの現実がいかに生々しいものであるかは同志の皆さんにはご存知の通りであります。

心の太鼓

 将棋の金子金五郎さんは、「我身を忘れて没入する程の愛がなければ上達することはできない。」といっておりました。
 プロの世界の話ではありますが、芸の上に限らず、上達とか深さ、強さを追進して行こうとするならば当然のことであろうと思います。
 愛の何たるかはわかりませんが、我身を忘れることができる程打ち込めることそのことがすでに愛の世界といえるかも知れません。
 金子さんは更に「心と技が別々であれば強くなれないし、手を読むこともスムーズには行かず、駒の動きと我が心の対立が否定されて純粋となる。
 そんな時は他人がどういおうと将棋に夢中だ。」(この心あながちに切なるもの。晩聲社)といっております。
 つまりこの場合は盤面と自分とが交流し、感応し合う世界をいっているのでありますが、このことは人の行動の中の基本となる大切な世界の一つであると思います。
 目に見え、手に触れることができるこの世の実在する物の全てに、過去と現在と未来の三世があって、更にそのものが生命を有し、現在あるいのちの全てが過去から成り立つことから感謝の念も生じ、現在はそのまま未来への希望の姿であると考えられはしないでしょうか。
 刻々と移る現在のさまざまな事情々実が過去の心の栄養として自己を生長させる知恵が人にはあると思います。
 人はそれぞれ心に太鼓を有していると思います。
 その太鼓を打つ人、打たれて響くその響きが山彦となって打つ人の琴線に触れる時、いいようのない打ち震える程の感動を呼ぶ事は体験したもののみが味わうことのできるよろこびの世界であります。
 合気道の世界にあっても、現わされる技は触れる人の心の太鼓を響かせるに充分な真の力を有するものでありたいと思います。

矛盾反対

 三浦綾子さんという作家の本を読んでみました。
 その「愛すること信ずること」(講談社現代新書)という本の中にキラキラと光る三浦さんの考え方の深さに教えられることが多くありました。
 中でも「人間の理解というものは、小さな会話のつみ重ねの中に生まれていくものではないだろうか。」ということがありました。
 そして、「どんな小さな会話でも、やはりその人間の人格に咲いた花のようなものだ。」とあり、言葉の働きに関する部分に興味を感じました。
 熱心なキリスト教の信者である夫君、三浦光世氏とその妻綾子女史のたあいのない日常のなにげないことばのやりとりから、善きにつけ悪しきにつけ、新しい発見を重ねて行くことによって相手と自分の違いを自覚し、かえってそれぞれの個がハッキリ浮かび上がることによって尊敬しあえるようなことから、いかに一体感をもった関係であっても、人格は個々であるという考え方に至るその過程に共鳴を覚えました。
 古来からの教えにも、「執われず、排斥せず。」とあります。
 つまり、ものごとが成り立つということは、常に反対矛盾ということがあってこそ成り立つということであり、例えば崩れ落ちようとする体にしても、引力に逆らうことによって歩くことも立つこともできるようなものであります。
 考えるということにしても、いろいろと心配し、考え、反対矛盾を受け入れ転化してこそ纏って行くようなものであります。
 人に、「より善かれ、より美しかれ。」と思う気持があるのも、「崩れるよりは立とう、壊すよりは造ろう。」とするところに意味を感じるからだと思います。
 合気道にしても、本来のあり方を明らかにしようとする体の働きを通して反対矛盾ということの意味を勉強しているような気がいたします。

紙一重

 尻尾を踏まれてギャーといった猫に対して「シッポを踏まれた位でギャーギャーいわないの」とたしなめたという家内が、少し後になって自分の足が噛まれていたことに気付いたそうであります。
 家族同様の飼い主に対してでもあり、加減して噛んだにしてもそのことに気付かずに猫をたしなめた家内の余裕にはホトホト感心させられました。
 噛まれたことに気付かぬ鈍感な部分と、大きく包み込む寛容な部分と、噛まれることによって生じる恐怖心や怒りの部分と、反面鋭敏な部分と、善悪のことは別にして、このような日常のほんのささいなことがらからも体験する個々人によって受止め方にはさまざまなものがあると思います。
 呼く吸う、は無論のこと、上下、左右、前後、喜怒、哀楽といった数え挙げればキリのない相対するさまざまな「はざま」にあって人々は生かされ、活動していることは事実であります。
 このような日常生活の中にあっても寛容、辛辣、鈍感、鋭敏といった端のみに思いを偏らせることなく、端自体も固定されたものでもない位に考えて、自由で且つ自在でありたいものであります。
 道具のような物でも、用と働きが異なれば、例えばヒゲ剃りに鉈は不向きなように、薪割りにもカミソリは適さないようなものであります。
 人の心の持ちよう、在り方、考え方にしてもその時々に求められる用いられ方とその働き方が大切であると思います。
 用と働きの差がわずか紙一重であっても全く異質の結果が生じるように思います。
 合気道にあっても、稽古や日常生活を通じて、このような相対する世界、異質の世界を良く見定め、理解し、身に付けることによって自己を深め、成長させて行くものと信じます。