どろどろとうごめく器官律しつつ
  明らかに澄みて固体は立てり
             石川恭子
 医師の歌であります。くずれ落ちようとする身をささえているものが何であるかをおしえてくれる歌であります。
 この歌を通じて感じる事が一つあります。
 それはどろどろとした器官が単に細胞でできた器ということだけでなく、ひとのこころそのもののように感じたことであります。
 律するということが単純な妥協や我慢だけではないということも想像できますが、時には渾沌として、まさにどろどろとうごめくことのなかから何かが生まれてくることも信じたいものであります。
 画家の中川一政さんは誠にきびしいことをいっています。
 それは「拓かれたと思った瞬間、実はそれ以外の見方ができなくなっている。」という意味の言葉でありますが、実に興味深いことであります。
 理解しにくい部分もありますが、物とか事、身とか心、といったものの境を外そうとする作業にたずさわった者にのみ修得できる境地なのかも知れません。
 内から外に向かうものがあれば、外から捕えて内なるいのちを表現しようとする方法もあると思います。
 絵とか写真とかがこの範躊に入るのかも知れません。
 どろどろとしていようが、明るく澄んでいようが、内からであろうが、外からであろうが、その境についての興味はつきません。
 合気道は時間と空間がかけ合わされて動きとなります。
 この働きのもととなるものはいうまでもなく心身でありますが、心身そのものの境はいったいどこにあるのでしょうか。
 「顕幽一如の真諦を知れ」という教えを思い起こします。

歌四首

 何処より湧くや武産気の御技 日々の稽古は井戸の呼び水
 「呼び水」 この歌は額に入れて一時期道場の壁に飾らせて頂いたことがありました。
 後に「公の施設ですから」、ということで外させてもらいましたが、気の何たるかも解らぬままのたよりなさと初々しさが感じられます。

 在るがまゝ映す鏡を身に合わせ 分け入ってこそ道とぞ思う
 「鏡」 ガラスの鏡は映すことのみに働きがありますが、人の心の鏡は自己を省みるところにハタラキがあると思います。
 囚われのない心を理想としたいものであります。

 張る人の心を的の梓弓 満ちて離るゝ今ぞ美わし
 「梓弓」 人の心のハタラキは意識にある様に思います。
 何をするにもその人の意識を伴うからであります。
 的を意識した今、矢の放たれる今、常に今の連続であるともいえましょう。
 この歌は人に贈らせて頂いた歌であります。

 誠をばさらに誠に錬りあげて 顕幽一如の真諦を知れ
 「道歌」 合気道の道歌にもこのような素晴らしい歌が多くあります。
 いつかもいいましたが歌や詩はその人の気合ともいえます。
 皆様も是非こころみられてはいかがでしょうか。

優しさ

 これからは「優しさを具えた人が時代をリードする」といっていた人がいました。
 これからの時代のみならず今迄の時代もそうであったとも思いますが、人の優れた一面である「やさしさ」ということの大切にされるべきことは太古の昔から自明であったのでしょうが、時と共にいよいよその自明の光が輝きを増してきたということでありましょうか。
 このことは反面、他を受け入れないことにより生じる不合理から、気分をさわやかに持とうとする人の叡智の復元力の顕われであるともいえましょう。
 又、大なり小なり必ず比較対象となるモノやコトが相対して存在する世の中であるが故に何等かのカタチで常に人の心は関与し、時に遠慮会釈もなく奥深く出入りしているのが現実であることを誰もが理解し、経験し続けているのが日常であるということだと思います。
 虫をも殺さぬやさしさもありましょうが、食用に殺す数のおびただしさもありましょうし、激烈な競合の影にひそむ優れた者への賛美も又、人の世の慣いでありましょう。
 殺さず、競合せず、心身を揉むことなく力強く成長することがあり得るのでしょうか。
 溺愛だけから生まれるものは笹の葉の舟に人は乗れないように何か偏よりがあるように感じるのも又、人の持つ心の大きな働きの一つであると思います。
 何についてもいえることでありますが、やはり優しさについても、単独で存在するのではなく、相対する面を含み持つことを理解してこそ即ち優しさということの意味がハッキリと浮かび上ってくるものと思います。
 時に厳しさを伴い、時に理解の届かぬ所にあることもこの故と思います。
 合気道の稽古に於ける優しさも全く同じであります。
 いづれにせよ邪心を持たないということがなによりも大切であると思います。

モノとコト

 熊谷守一さんという絵画きさんをご存知でしょうか。
 九十才を過ぎてもなお、十年を一日の如く朝おきると奥さんと碁を打ち、昼寝をして後に絵を画くという生活を何十年と続けたという熊谷さん。
 たまたま本屋さんで「へたも絵のうち」という御夫婦で碁を打っている写真の載った本が目に付き、十年も前に入手した時に識った絵画きさんであります。
 熊谷さんの言葉に「へたな絵そのモノは破り捨てることができてもへたな絵を画いたというコトは消せません。」というのがありました。
 これは先日のテレビで特集があった時に聞いた言葉ですが、上手とか下手とかということで絵を観ていなかった熊谷さんの真骨重がうかがえることばであると思えます。
 「どうしたらいい絵がかけるか」という問に対しては「自分を生かす自然な絵をかけばいい」と答えていたそうであります。
 絵のことは全くわかりませんが、その後、本郷で入手した熊谷さんの絵のコピーを大きな額と共に持ち帰って永らく自宅に飾ったことがあります。
 心なごむ絵でありました。
 彼の絵に雨樋から流れ落ちる水を形にした絵で「雨水」という絵があります。
 この絵の解説に「雨水を単にモノとしてではなく水のあふれるコトとして心に捕えている」という意味の説明がありました。
 絵を画く人、それをみる人、それにしてもこれ程迄に見事な解釈はないと思います。
 庭に敷いたゴザの上で一日中アリを眺め、石コロ一つで何年でも生きられるといい切り、「へたも認めよ」といった熊谷さん。
 形のみえるモノ、ハタラキがいのちのコト、この関係をしっかりと捕えることについての興味はつきません。
 合気道も又、自己を通じてモノとコトを充分に理解し深めて行く稽古であるといえましょう。

生活

 生活というからには活き活きと生きたいものであります。
 誰しも生きていない生活人はいないわけで、生活しているということに関しては全ての人が実践の最中の体感者でもあるわけでありますので、この意味に於いて文字やおしえのことはともかくとして理屈でなくやはり説明のつかないいのちの世界の延長であるともいえると思います。
 生きるということにいたしましても唯永く生きさえすれば良いというだけでなく、それぞれの成長、環境に見合った自然な要求に従っていよいよ前進し子供は子供なり、青年は青年なり、大人は大人なりに各自のさまざまな事情々実に合わせて変化成長してゆくことが即ちいのちの要求であるものと思います。
 その結果として単一でない深みのある世の中での実生活を体験できるということもいえるのだと思います。
 くるまのトランクに大きな穴が孔いて車を買い換えたいが子供の進学の問題もあって費用の念出のメドがつかない、毎日の仕事が際限もなく続きいのちをすり減らす思いである、対人関係もわずらわしい、等々見渡せば各自それこそさまざまな実感としての生活が展開されていると思います。
 しかし乍ら考えてみますとこれらの実感、事情が実は生活にハリを持たせ、各自をして成長させるタネともなっているとはいえないでしょうか。
 いのもあるものは例外なく過去、現在、未来の三界をつらぬくものであります。
 生活も又、いのちの世界の延長である限り例外ではありません。
 過去を離れず、今を大切にし、未来あることを信じ、光とともに生きるべきでありましょう。
 合気道の教えにも「天地万有は一家のごとく、一身のごとく過去、現在、未来は我らの生命の呼吸として人の世の化育を教える。」とあります。

よろこび

 心に願うことのかなう時、それはことの大小、浅深にかかわらず身を打ち震わす程のよろこびがあるのはひとり人の世のできごとにとどまらないものと思います。
 咲く花、鳴く鳥はいうに及ばず、天に流れる銀河に至る迄、真なれ、善かれ、美しくあれかし、と願う存在するものの全ての思いがこめられ、そして正にその思いが実現し得るよろこびに満ちあふれた姿であるといえはしないでしょうか。
 さまざまに思い患い、かなわぬことを悲しみ怒る時、体内に流れる血液迄も生命に微妙な警告を与えると聞いております。
 このようなことから日々の生活に際し、悲しむ勿、怒る勿と教えた先人もありましたが、大自然の心に逆らうことの無意味さを示す一例でもありましょう。
 忘れがちなこととして「自明であることへの自覚」ということが挙げられると思います。
 例えば地球の引力についてもいえることですが、潮の満ち干きはいうに及ばず、人が地上に立ち、歩くことのできるのもまさに地球の引力の賜ものであります。
 身体を形成する骨格にしても日々に新たに細胞が入れ換って成り立っているとのことであります。
 このように自覚しなくとも大自然の影響を受け乍ら活かされていることを時に思い起し自らの内に明らかにして行くことも大切なことであると思います。
 自らの内に明らかにして行くことを日々に行なう方法はいろいろであると思いますが、その方法、行ないを通じて明らかになるところによろこびや感謝の情が産まれてくるのではないでしょうか。
 合気道の技法に関しましても大自然と己が一身のかかわり合いを自らのうちに明らかにするための教えであると思います。

しかられる

 「人間四十歳を過ぎると人にしかられることがなくなるでしょう。」
 先月紹介した小川誠子さんが大先輩の女流棋士から聞いたことのある言葉であります。
 これには続きがありまして、「けれどもね、おこられなくなると碁の方からしかってくれるんですよ。」と教えられたそうであります。
 真理深求に生きる人の当然といえばそれ迄ですが流石ともいえることばであると思います。
 似たような話はよくきかれると思います。
 三日休めば観客に知れ、二日休めば相手に分かり、一日休めば自分に判るといわれるのはひとり演劇の世界だけではないと思います。
 自然の摂理を何等かの方法で具現しようとこころみる人の共通のことかも知れませんが、自分の我や、作為といったものから働きかけてことが成る程単純なものではないということだと思います。
 「例え七歳の童子であっても我より勝るならば我、彼に問うべし」といった趙州和尚は十七歳にしてすでに悟りを得、六十歳のときにこういって修業の旅に出たそうであります。
 尤も相手が劣であれば例え百歳の老人であっても教えるともいっております。
 これからは老人社会になるといわれておりますが、年令に関係なく誰でも真理の前には素直であるべきでありましょう。
 百歳を無為に過ごす人はいないと思いますが、敬うべくして尊ばれるような歳を経て行きたいものであります。
 合気道の技の世界にしても技は我によって成る程単純なものでもなく、やはり真理による自他融合の発露であるべきであると思います。
 故に、倦むことなく行ない油断なく修めることが大切でありしかられているということにしても結局は自他を受け入れる器量が即ちそのことに気付くか否かをも左右しているものと思います。

小川誠子さん

 十四才で全国アマ女流選手権戦に出場、最年少で優勝し、大豪木谷実九段に入門、専門棋士として、女流本因坊位を獲得する等大活躍中の女流棋士。
 俳優の山本圭さんの奥さんで一児のママさんでもあります。
 この小川誠子さんが毎週日曜日午後、NHK教育テレビの囲碁番組に解説の聞きて役として出演されており楽しみにされているファンもたくさんおられると思います。
 とも子さんについてとても感心させられることがあります。
 それはテレビを観ている人であれば誰でも気付くことなのですが、解説をされている人の意図されていること、テレビで観戦している人達、それに聞き手の自らの立場等を絶妙に調和させる力を有していることについてであります。
 なかなかできないことといえましょう。
 聞き手が対局者の次の手を勝手に予想して観客に示すことは、名曲に雑音をさしはさむのに似たところがありはしないでしょうか。
 いのちがけで鍛えた超一流の棋士の着手の意図するところに触れる解説者の話をうまく引出し、深淵な術理のかもし出す碁の世界に視聴者を導き入れてこそ楽しい番組であるといえることだと思います。
 これは解説をされる先生方にくらべて遜色のない彼女の専門的な力量と、初心の人々迄を包込む優しさがあって始めて可能なことと言えましょう。
 今でも思い出すといわれている平塚の海に励まされ乍ら修業に明け暮れた小川誠子さん。
 「続ければ一生」という言葉が好きだというともこさん。
 道を通じて自らを学び、理合に生きることをよろこびとすることに相通じるものを感じます。
 道こそ違え、合気道を学ぶ我等にとりましても目標にすべき先生の一人であると思います。

言葉 一

 朝日新聞に連載のコラム「折々のうた」を楽しみにしておられる人は多いと思う。
 担当されている大岡信さんがしばらく休まれるということであるが、氏の書かれる原動力が日本語を「敏感な生きもの」としてとらえ、そのことを事実として言い続けたいというところにあるのだ、ということが記されてありました。
 会報第十八号の「歌二首」に載せた正岡子規や中村草田男のうたも「折々のうた」にあったものであります。
 ことばに対する思いやりがそのまま人間に対するいとおしみに通じていることが感じられます。
 同じうたを聞いてもひとはそれぞれに理解の度合いや、その微妙な作者との一体感にはおのずから差はあるものと思いますが、打てば響くの例えの通り心の鼓膜も大切にしたいものであります。
 日常の立居ふるまいにいたしましても、小手先のままに行われることによって生じる小さな失敗は誰でも経験するところであると思います。
 ほんのささいな指先のトゲから死に至る場合の交通事故の類迄さまざまな可能性の中に生きていますが、考えてみますとこの行なうという動作にいたしましても言葉と同様単なる行ないだけでなく幹も枝も共にある本質の伴ったものでなければ不自然であるということなのでありましょうか。
 大岡信さんは「言葉は単なる言葉でありながら深い意味において人間そのものである」と言っております。
 実に興味深いところであります。
 行なうことも、言葉もかたよることのない全ての部分を認めてこそ始めて活きてくるものであると信じます。
 合気道の稽古を続け体を通じてさまざまなことが明らかになってまいります。
 又、その過程こそが同志に与えられたよろこびであるともいえましょう。

相対

 この世の中にはものにしても、ことがらにしても程度の差こそあれ、ふたつの相対することから成り立っているということがいえると思います。
 速いとか、遅いとか、熱いとか冷たいとか、あるいは固い柔らかい、強い弱い、重い軽い、更に上下、左右、前後、動静、大小等々数え挙げればキリがない程であると思います。
 人の手の平にいたしましても、ひらくということ、とじるということの二つのハタラキを通じて指や腕等関連する機能を助け、しいては手の平自身の機能を全うすることができるものと思います。
 閉じるはむすぶに通じ、むすぶはほどく、とけるに通じてとけるは固まるという対象があるように、ことがら、物、状態によって変わって参りますが、このように相対することばのうちには実に大切な意味が含まれているものと思います。
 セメントは固まらなければ意味が無いのは固まることによってその働きを得ようとするからであって、心身が固まって具合が悪いのは固まることによって自由度が失われ、そのことから自他がギクシャクすることの不愉快さをまねくことにあることはいうまでもありません。
 心身を常にやわらかく鍛える人は暦の年令に関係なくいつまでも成長の途にある青年の志をもつ人といえるでしょう。
 このように固いやわらかい、開く閉じるにいたしましても安易に善悪を極めるのはややもすると自分本位になりがちでありますが、各々そのところを得ることに合致していくところに相対する性質も活きてゆくものと思います。
 合気道の稽古法にも固い稽古、柔らかい稽古とありますが、どちらも相対する自他が合致して行く為には欠くべがらざる稽古法であり共に生き、共に働くの精神の実現法であると思います。