学ぶ

 学ぶということは、「まねる」とか「ならう」とかの意味が今日の「学ぶ」になったとされています通り、常に自分と相手の存在をつうじて行なわれるということと、学ぶことによって他の存在を自己の内に認め、そのことによって初めて自分自身も活かされてくるという極めて意義深い関係があることに気付くことがあります。
 人は学ぶことによって成長し、認めることによって深まるものと思います。
 それ故に、学ぶ側には上下、前後、左右はいうに及ばず自分以外の全ての存在に心を延ばし、自分の存在をすら忘れる程に熱く、素直に学ぶことができれば理想といえましょう。
 道元師の言葉にも、自己をならうとは自己をわするるなりとあります。
 自分以外の存在から学ぶことが、つまりは自分を勉強するということに他ならないとも言えましょう。
  人は錬磨によりて仁となる
  いづれの玉か初めより光ある
  自ら卑下して学道をゆるくすることなかれ
  時光とおなじく切に学道せよ。(懐奘)
 語学にせよ、仕事にせよ、何の世界でもそうかも知れませんが、強い人程、明るい人程、人一倍に日頃勉強しているものであります。
 しかし乍らそれらの人々とて初めからそうであったわけでなく、誰もが平等に学ぶ機会があるものと考えて、力むこともなく、さわやかな風のように、柔らかな朝日の様に素直な気持になることが学びの第一歩でありましょう。
 合気道に於いても、日々の稽古は勿論のこと、正しいと信じられることでさえ捨て去る程のこころをつくることも大切な学びであるとおもいます。

大きい

 「飛ぶ高さを気にせず 空の深さを加減しない あのいかにも悠々としたオクラホマの鷹」
 昨年の十月、気候の良い時に所用でアメリカのオクラホマ迄行く機会を得た折の、中でも特に印象的であったのが、澄んだ高い空を悠々と群れて飛ぶ鷹の姿であった。
 自己の奥深く「スム」ところの存在に触れるには高さを気にせず、深さを加減しない程の「大きさ」が合うことをオクラホマの鷹はおしえてくれた。
 大きくなるということは単に量的に膨らむばかりでなく、質的な脱皮や、場合によっては捨て去る勇気、穀を破る力、そしてそれらの養成も必要でありましょう。
 又、「大きい」ということには「小さい」ということを含むということにも気付くべきでもありましょう。
 どれ程の微細、極小のヒダや変化にも対応できる「小」なるものの存在を認めてこそ、どれ程の太さ、広さにも悠々として追随、順応して行ける大きさ、大いさも活きて来
ると云えましょう。
 飛ぶ高さと、空の深さを気にしない鷹でさえ、一心に群飛の仲間と調和し、地上の、あるいは上空の全ての形あるもの、動くものに気を配り、しかも、自らの羽根は極めて微妙に、休むことを知らない。
 「大きい」ということも、「小さい」ということを含めた呼吸の一種としてみれば、確実に呼吸することの大切さからみれば大も小も同等の価値があると思います。
 合気道も正に、大小、動静、柔剛、融固、加減、浅深、生死等々を誤ることなく有り有りとさせる為の呼吸法の錬磨、稽古であるものと信じます。

修得

 山本七平氏の「無所属の時間」(PHP文庫)の中に、「原則が簡単なものほど修得も実施もむずかしいという厳然たる事実」への認識について触れた部分がありましたが、厳然たる事実かどうかは別としまして、確かに原理、原則が単純であればある程、入り易い反面、普遍的であるためにかえって奥が深くなっているということがいえると思います。
 例えていえば、人の生命についても、生きている間は死ぬことはありませんが、この単純明解な原則にしても、「絶える迄生き通す」という信念と勇気をもって何如に活き活きと生き、その間何を得、何を修めるべきかに思いが至ればこれは並や大抵ではないことは容易に想像されます。
 以前、囲碁の林海峯さんが、ある局面から更に先を「読む」ということを、「深い海に潜る」ということに例えていた記憶があります。
 当人にしてみれば苛酷な対局を何度も何度も経た末に修め得た経験からの例え話であると思います。
 現実の水は冷たくもあり、重くもあり、水に潜ろうとすればすぐに浮こうとする浮力や水圧が、深く潜れば潜る程かかってきますが、どこまでそれらに耐えることができるかという力と技術の修得を積み得た人にしてはじめて深く進むことが可能だということを示唆してくれております。
 人のさりげない所作や、目を見張る様な素晴らしさは1朝1夕に成るものでもなく、かえって一見簡単そうに見えたり、思えたりするような場合こそ相当な力量が伴われていることを知るべきであると思います。
 合気道の目標でもある「自然との一致」を「完成」とするならば、不完全である以上、正しく行なえば必ず進歩するということも当然であって、修得の意義も楽しさもこの辺にあると思います。

強さ

 グー、チョキ、パーはご存知ジャンケンポンでありますが、勝ち負けを表わすのには極めて便利な方法であります。
 グーは石、チョキは鋏、パーは紙(又は布)をあらわし、各々が相対した時、鋏は紙に勝ち、切ることができない石に負け、石は鋏には勝てるが包まれて紙に負け、紙は石には勝てても、鋏には切られて負ける、というものですが、興味深いのは三者のうちいずれが一番強いか、ということでなく、それぞれの特色を無理なく、遺憾なく発揮し得た方を勝とすることを万人の共通として承知しているところにあります。
 強さということも本来この様に比較の問題としてでなく「有るが故に、いよいよその特性をあらしめる」ことが何如に自然に行なわれてゆくか、というように考えるのが正しいかも知れません。
 比較の対象である自他についても、その違いを明瞭に知ることは大切ですが、区別することのみに囚われ、終始するだけの心では楽しいとは云えないでしょう。
 人は生命によって世に立ち、家は人の意志によって地上に建つ。
 人も家も本来は崩れ去り、潰れ落ちようとする作用がありますが、進化発展しようとする大自然の心、人の心の強さによる日々の行ないの積み重ねが、崩れ去り、潰れ落ちようとする力に倍して、伸び育ち、建ち栄えて行くものと信じます。
 強いということの意味にはいろいろあると思いますが、その一つに、「明るい」ということが挙げられると思います。
 理に明るいが故に勝利するということですが、この世の中は実存の世界ですから理屈でなく、自ら行じて体現して行かなければ意味のないことは勿論のことです。
 合気道に於ける強さということについて、これからも一緒に考えて参りましょう。

稽古

 稽古という言葉には、古きをたずね、慕い、深く学ぶという意味があるとされています。
 従って、稽古の不足ということは単に量から見た不足だけでなく、学ぶ事、省みる事、心を届かせる事に於いて浅く、不充分であるということ、とも言えると思います。
 もとより何かに打ち込む場合は、質に転化する程の量、そのものも大切ではありますが、人にはそれぞれの環境があって、それらの個々の事情々実を無視するわけにはまいりません。
 与えられた天分を自らの範囲内で充分に発揮しつつ、徐々に、成長して行けばそれはそれで良いと思います。
 いずれにせよ、稽古ということは自らの心身を通じて、物事の道理を明らかにして行くこと、広く云えば自他の共存共栄、調和への意識そのものを鍛えることであると思います。
 自然界の現象、例えば引力とか、音の世界とか、光の世界とか、あるいは人体の自律作用等は人為を超えていることは誰でも理解できますが、人の行為には通常の場合、意識が伴います。
 何かを行なおうとする人の心の働き方、意識のもち方によっていかに結果に於いて大きく違ってくるかは毎日の新聞やテレビで伝えられる通りであります。
 案外わかりにくく、気が付きにくいのが自分自身のことであると思います。
 人は誰しも、愛より発露された意識と、言葉を産む心を鍛え、更にその心が常に伸び伸びとしている、というふうにありたいものです。
 合気道には「勝つ為の稽古でなく、克っている為の稽古をする」という味わうべき教えがあります。

あそび

 「遊」と書いて「ゆう」とも読む言葉の響きからいっても、ゆうゆうとしていかにも余裕のあることが伺える。「近頃の子供は遊び方を知らなくなった」等と言われ乍らも工夫して遊んでいるし、ゴルフやマージャンによってストレスを解消させる大人の遊びも、又、おしゃべりや買物等も女性の特有なあそびの範疇かも知れない。いずれにせよあそぶということは一様に親しまれている。
 あそびが大切であると認められることは、取りも直さず、その効用が「心身をくつろがせることによって気分が爽やかになる」ということであろう。犬や猫の様な動物にしても余裕があれば手足をユッタリとさせる。「楽しい」ということ自体、本来は「手伸しい」の義であり程良くノビノビとした心身の状態をいう。ユッタリとばかりもして居れずに、サッサッとすることも勿論ある。緩めたり固めたり、伸ばしたり縮めたりも、呼吸の一種と考えて、善し悪し、はその時の事情に委せればよい。
 機械用語でいう「アソビ」は一面「ガタ」ともいわれ、両刃の剱の作用がある。例えば自動車でいえば、クラッチのアソビは程々のユルミとして歓迎され、車軸と軸承の間のアソビは「ガタ」として嫌われる。このガタは次第に増巾されついには文字通りガタガタとなる。
 この様にしてみると、あそびも周囲との調和が基本となっており、大きくみれば地球の自転や公転にしても引力によって調和する「大いなるあそび」といえるかも知れない。小宇宙そのものである個々の人間にとってもあそびは無意識に働くバランス感覚の一種といえよう。合気道の実技に於いても、放り投げる程に解き放った自己の心の充実がそのまま体に現われることによって技は産まれる。大いに遊び大いに学ぼう。

闘う

 「まるで玄米と闘っているみたい」。
 長い間の不摂生から内臓を弱め、健康に留意する様になり、最近始めた小生の玄米食での夕食のひとときに思わずもらした家内のひとことである。
 ご存知の通り玄米は籾穀を除いただけの精米していない米の為、圧力釜で炊いても、更によく充分に噛み砕かないと飲み込む事ができない。
 故にまるで不便さを味わう様に一粒一粒をつぶし乍ら時間をかけての食事となることからのひとことであった。
 「闘う」というとややもすると「敵対する」というふうに意識が働き勝ちだが、この場合は様子が違い、むしろ「味方する」というふうにも受け取れる。
 つまり玄米食でいえば、良く噛んで食し、充分に養分を吸収できれば本人も勝ち、玄米もその天分を活かし切ることができたという意味に於いて勝ちを得る。
 病と闘う、自己と闘う、等々についてもいえることでしょうが、闘うということはその対象に対して逃げも隠れもせずに堂々と立ち向かい、むしろじっくりと取り組み、味わう様に相手となり、「お互いを活かし切る」ということに通じるものと思う。
 囲碁の世界などでも、もちろん相手があって、勝負を競い合う芸なのでしょうが、その闘いは常に調和を求め合う事を基本として成立ち、正しきが故に自らに打ち克つ、という具合になっているものと思う。
 こうしてみると、「闘う」ということは、まるで「差し込む朝日の様に、あるいは引力にいざなわれる水の様に、倦まず、弛まず、といった力のみなぎる様子。」と、思えて来る。
 合気道には試合はない。
 合気道に於いて闘いというものがあるとすればその帰結は常に自らに在り、自他を含めた大自然との調和そのものを意味する。
 「和」とは裏返せば「大いなる闘い」を意味するものと信じる。

心を鍛える

 ある時テレビで放映された仏像を造る仏師の方のことばが印象に残った。
 「仏像は彫ったり造ったりするものでなく、木の中に(本来)ある仏を引き出すばかり」とあった。
 子弟の教育についてもこれ程ピッタリとした言葉は無いかも知れないし、なる程、としたり顔で聞き流すにはもったいない内容である。
 大晦日に煮る黒豆にしても、例え素材に丹波の黒豆を使っていても料理をする人の心と技術が伴わなげれば味わう人が理想とする味は引き出されない。
 引き出す人の技術そのものも大切だ。
 音楽の世界でもこのことは顕著である。
 例えば、ピアニストの中村紘子さんが「ピアノは心で弾くものだ。その心のくもりをぬぐうのが即ち練習であり技術である。したがって心を鍛えなげればならない。」という意味のことをいっておられたのを出張中の機中で読んだことがある。
 又世界的にトップレベルのフルート奏者の女性のことばであったと記憶するが、「技術は心を表現するものであるから(表現される)心そのものの存在は常に気がかりだ。」と言われていたことを思い出す。
 これらのことは、実は心とか、技術とかの関係を通じて、音や形が生まれてくることの本質がやはり大自然の心と一致順応することの素晴らしさを実証しているものと思う。
 「心を鍛える」ことは同じ意味で、合気道に於いても大切である。
 未熟な自分の「我」(相手の存在を無視する部分)というものを「他」に押し付ければ、その対象が檜木であれ、ピアノであれ、フルートであれ、人であれ、まるで「こだま」の様に正直に返ってきて心は安まらない。
 自他が一体となる感じは円満にしてなつかしい思いがする。

有る

 ひとは誰しも真であり善であり美なることを尊ぶ。これは極めて自然なことで理屈ではない。「有り難くなつかしく思う心」を有する故と思う。
 子供にしても善い所を認めてもらって誉められれば気分が良くなる。例えれば、それは君子蘭の花芽がまさに延びんとするあの凛としたすがすがしさを「認める方」も「認められる方」も大自然のあるべき姿に合致、順応していることに他ならないのと一緒であろう。
 大人にしても病気でいるよりは健康でありたいと念じ、お金を増やしたり、家を建てたり、勉強したりし乍ら日々を生活することは逆にみれば絶えず油断なく病気にならないように留意し、浪費を避けて日々を勤め、破壊よりも建設の道を選び将来への夢を繋ごうと思うことも「真善美」の実現を心良く思うあらわれであると思う。
 このことは「有る」ということが単に「有る」だけではなく「有るが故にいよいよ有らしめる心」、つまり「這えば起て、起てば歩めの親心」と同じことで、この身の手足にしても命にしても、存在するものの一切が「用のあるところにいよいよ働いて行く」ところに「有る」ということの価値は認められるものと思う。
 「産霊(むすび)とは有らしむる、善からしむる、美しからしむる、有り難くなつかしむる作用。即ち一切にますますそのよろしき所を与える作用をいう」とあります。
 日々の生活は有限、相対の中にあって、矛盾や不合理に綾なされているのが現実ですが、不思議なことにその中から無限、絶対合理の世界の存在が感じられ、信じられてきます。合気道に於いてもこの「むすび」ということが大切とされますが心身を通じて明らかにして行くことは容易ではない。

真中

 「真中ということは片寄ること無く一切の端を含み持っている事」と教えられている。
 端の「は」は文字通り木の葉、布の端、山の麓、鋸の刃、身体の歯、の様に中心に属しつつ、無くてはならない幹の延長である。
 「言葉」は同じ意味で人の誠の現れ故に大切とされる。
 あのゴツゴツとした桜の幹から延びた枝の先にも、春になるとパッと開く桜花に例えれば、それぞれの姿、形こそ違え、幹と枝と、花のいずれをとっても桜であり、又、そのいずれを欠いても桜とは成り得ない。
 ヒトの社会やモノゴトについても、上下、前後、左右、大小、強弱、濃淡、明暗、呼吸等々といった相対するこれらの関係が厳然として存在するのがこの世の中であるが、これらのいずれについても一部分としてとらえるのではなく、一切を受け入れてこそ自分が生きると知るべきであろう。
 道元師のことばにある「自己を運びて万法を修証するを迷とし、万法進みて自己を修証するは悟りなり」とある通りである。
 真実を自分の都合であれこれと推し計ればどうしても排他の部分が生じる。
 合気道を学ぶ者にとって、「中心を捕らえる」ことは「全体を捕らえる」ことに通じ、捕らえたり抑えたりすることは同時に相手を活かすことに通じるものと思う。
 「年毎に咲くや吉野の桜花
     樹を割りてみよ花のありかを」
 この詠み古された歌の教えは尊い。