声と音

 分け入っても 分け入っても 青い山
と詩った漂泊の俳人、種田山頭火。
 捨てても捨てても捨てきれぬ自分、払っても払っても払いきれぬ自分、徹底しても徹底しても徹底しきれぬ自分の心を正直にうたい続けた旅の俳人でもありました。
 生き方がそのまゝ作風となっている感があります。
 「生きているよろこびを知るならば生かされているありがたさを忘れてはならない。
 ありがたさがもったいなさとなるとき、そのときがいのちにぴったり触れた時だ。」というような意味のこともいっております。(山頭火「句と言葉」春陽堂)
 真に渇いた者であれば一滴の水もいのちの水となり、真に寂寥を知るものであれば木の葉の落ちる音がこころの奥深いところに響き届くことでありましょう。
 山頭火は五十三才位の頃でありましょうか、「音響を声と観られるようになった。」といっております。
 つまり、「音が心にとけるとき、心が音をとかすとき、それは音でなくして声となる。」
 さらに、「その新らしい声を聴き洩らすな。」といっております。
 よくいわれることでありますが、使命はいのちを使うこと、運命はいのちをはこぶこと、どちらも漠然としており、まるで偶然のようなことのように思えますがさにあらず、実に生々しい現実であろうと思います。
 いのちに関していえば、こころとからだが離れ得ぬのと同じであるからであります。
 音と心と、心と声と。
 物から生じる音が心の世界にふれて声となる。
 はたしてその結び目はいったいどこにあるのでしょうか。
 こころとからだの結び目はいったい何処にあるのでしょうか。
 合気道の稽古の眼目も実はこの点を明らかにする作業のように思えてなりません。
 いのちを使い、いのちを運び乍ら。