この世の中にはものにしても、ことがらにしても程度の差こそあれ、ふたつの相対することから成り立っているということがいえると思います。
速いとか、遅いとか、熱いとか冷たいとか、あるいは固い柔らかい、強い弱い、重い軽い、更に上下、左右、前後、動静、大小等々数え挙げればキリがない程であると思います。
人の手の平にいたしましても、ひらくということ、とじるということの二つのハタラキを通じて指や腕等関連する機能を助け、しいては手の平自身の機能を全うすることができるものと思います。
閉じるはむすぶに通じ、むすぶはほどく、とけるに通じてとけるは固まるという対象があるように、ことがら、物、状態によって変わって参りますが、このように相対することばのうちには実に大切な意味が含まれているものと思います。
セメントは固まらなければ意味が無いのは固まることによってその働きを得ようとするからであって、心身が固まって具合が悪いのは固まることによって自由度が失われ、そのことから自他がギクシャクすることの不愉快さをまねくことにあることはいうまでもありません。
心身を常にやわらかく鍛える人は暦の年令に関係なくいつまでも成長の途にある青年の志をもつ人といえるでしょう。
このように固いやわらかい、開く閉じるにいたしましても安易に善悪を極めるのはややもすると自分本位になりがちでありますが、各々そのところを得ることに合致していくところに相対する性質も活きてゆくものと思います。
合気道の稽古法にも固い稽古、柔らかい稽古とありますが、どちらも相対する自他が合致して行く為には欠くべがらざる稽古法であり共に生き、共に働くの精神の実現法であると思います。