言葉 一

 朝日新聞に連載のコラム「折々のうた」を楽しみにしておられる人は多いと思う。
 担当されている大岡信さんがしばらく休まれるということであるが、氏の書かれる原動力が日本語を「敏感な生きもの」としてとらえ、そのことを事実として言い続けたいというところにあるのだ、ということが記されてありました。
 会報第十八号の「歌二首」に載せた正岡子規や中村草田男のうたも「折々のうた」にあったものであります。
 ことばに対する思いやりがそのまま人間に対するいとおしみに通じていることが感じられます。
 同じうたを聞いてもひとはそれぞれに理解の度合いや、その微妙な作者との一体感にはおのずから差はあるものと思いますが、打てば響くの例えの通り心の鼓膜も大切にしたいものであります。
 日常の立居ふるまいにいたしましても、小手先のままに行われることによって生じる小さな失敗は誰でも経験するところであると思います。
 ほんのささいな指先のトゲから死に至る場合の交通事故の類迄さまざまな可能性の中に生きていますが、考えてみますとこの行なうという動作にいたしましても言葉と同様単なる行ないだけでなく幹も枝も共にある本質の伴ったものでなければ不自然であるということなのでありましょうか。
 大岡信さんは「言葉は単なる言葉でありながら深い意味において人間そのものである」と言っております。
 実に興味深いところであります。
 行なうことも、言葉もかたよることのない全ての部分を認めてこそ始めて活きてくるものであると信じます。
 合気道の稽古を続け体を通じてさまざまなことが明らかになってまいります。
 又、その過程こそが同志に与えられたよろこびであるともいえましょう。