三浦綾子さんという作家の本を読んでみました。
その「愛すること信ずること」(講談社現代新書)という本の中にキラキラと光る三浦さんの考え方の深さに教えられることが多くありました。
中でも「人間の理解というものは、小さな会話のつみ重ねの中に生まれていくものではないだろうか。」ということがありました。
そして、「どんな小さな会話でも、やはりその人間の人格に咲いた花のようなものだ。」とあり、言葉の働きに関する部分に興味を感じました。
熱心なキリスト教の信者である夫君、三浦光世氏とその妻綾子女史のたあいのない日常のなにげないことばのやりとりから、善きにつけ悪しきにつけ、新しい発見を重ねて行くことによって相手と自分の違いを自覚し、かえってそれぞれの個がハッキリ浮かび上がることによって尊敬しあえるようなことから、いかに一体感をもった関係であっても、人格は個々であるという考え方に至るその過程に共鳴を覚えました。
古来からの教えにも、「執われず、排斥せず。」とあります。
つまり、ものごとが成り立つということは、常に反対矛盾ということがあってこそ成り立つということであり、例えば崩れ落ちようとする体にしても、引力に逆らうことによって歩くことも立つこともできるようなものであります。
考えるということにしても、いろいろと心配し、考え、反対矛盾を受け入れ転化してこそ纏って行くようなものであります。
人に、「より善かれ、より美しかれ。」と思う気持があるのも、「崩れるよりは立とう、壊すよりは造ろう。」とするところに意味を感じるからだと思います。
合気道にしても、本来のあり方を明らかにしようとする体の働きを通して反対矛盾ということの意味を勉強しているような気がいたします。