「遊」と書いて「ゆう」とも読む言葉の響きからいっても、ゆうゆうとしていかにも余裕のあることが伺える。「近頃の子供は遊び方を知らなくなった」等と言われ乍らも工夫して遊んでいるし、ゴルフやマージャンによってストレスを解消させる大人の遊びも、又、おしゃべりや買物等も女性の特有なあそびの範疇かも知れない。いずれにせよあそぶということは一様に親しまれている。
あそびが大切であると認められることは、取りも直さず、その効用が「心身をくつろがせることによって気分が爽やかになる」ということであろう。犬や猫の様な動物にしても余裕があれば手足をユッタリとさせる。「楽しい」ということ自体、本来は「手伸しい」の義であり程良くノビノビとした心身の状態をいう。ユッタリとばかりもして居れずに、サッサッとすることも勿論ある。緩めたり固めたり、伸ばしたり縮めたりも、呼吸の一種と考えて、善し悪し、はその時の事情に委せればよい。
機械用語でいう「アソビ」は一面「ガタ」ともいわれ、両刃の剱の作用がある。例えば自動車でいえば、クラッチのアソビは程々のユルミとして歓迎され、車軸と軸承の間のアソビは「ガタ」として嫌われる。このガタは次第に増巾されついには文字通りガタガタとなる。
この様にしてみると、あそびも周囲との調和が基本となっており、大きくみれば地球の自転や公転にしても引力によって調和する「大いなるあそび」といえるかも知れない。小宇宙そのものである個々の人間にとってもあそびは無意識に働くバランス感覚の一種といえよう。合気道の実技に於いても、放り投げる程に解き放った自己の心の充実がそのまま体に現われることによって技は産まれる。大いに遊び大いに学ぼう。