八月九日、テレビに映った歌詩を目で追ったが覚えきれないでいると家内が、「山里小学校はスーちゃんとミーちゃんが通っている学校よ」と教えてくれた。
早速長崎の孫達に連絡をしてその歌詩を送ってもらった。
かべに残った落書きの おさない文字のあの子の名
呼んでひそかに耳澄ます ああ あの子が生きていたならば
「あの子」という題の永井隆博士の作詩だ。
当日、被爆から六十三年の日を迎えた記念の式典で山里小学校の児童達が唄っていた歌であった。
勤務先(長崎大学医学部放射線科)の研究室で被爆した永井隆さんは晩年の三年間を周囲の人達の好意によって建てられた小さな家で母を失った吾子二人と共に過された。
わずか畳二枚のその家は「如己堂」と名付けられた。
『己を愛する如く人を愛せ』という博士の深い宗教観から生まれたものでありました。
畳二枚の広さといえば住むには狭い、という考えは三人にとって問題にならなかったのでありましょう。
暖かさと優しさに満ちあふれていたからでありましょう。
囲碁の趙治勲さんがその著書の中で、広さは面積で計かるものではなく、その中に潜む変化とか美しさで計るもの、という意味のことをいっていたことを思いだしました。
戦争のもたらしたいまわしさ、みにくさ、残酷さといったことを生きぬくことへの力強さと美しさに転化した天の意志ともいえる博士の愛の心には敷居も垣根もなかったのでありましょう。
その姿には合気道開祖植芝盛平翁の説かれた武道の本質に通じるものがあったのでは、と思わざるを得ません。
この夏、スーちゃんとミーちゃんは母親と一緒にパパの待つアメリカに旅立ちました。