稽古の根幹

 合気道探求第三十六号の「道主巻頭言」の中で次のような内容の文がありましたので、紹介いたします。
  『私が普段の生活で心掛けていることは会話の中で否定語を使わないということです。
 先ず相手を否定する所から始めればその後の建設的な話し合いがあり得ないからです。
 例え意見が異なったとしてもいきなり否定してしまえば相手も良い気持はしません、先ずは相手の意見を受け止め、その後に自分の意見を述べていく、このことは合気道の和合の精神そのままだと思います。』(「否定語」より)
 合気道は武道でありますから、技術の鍛練は勿論大切であります。
 しかしながらその技術を生みだす心の鍛練は更に大切に思えます。
 日々の生活の中にあって自他が融合すべく各自が油断なく言動に留意し、鍛練し、磨き上げて成長してゆくことの大切さを道主が自ら示されている内容でありました。
 神ながらの教えの中にも、「弥栄とは油断しないこと。」とあります。
 たえず崩れ落ちようとするカラダに対して、たえず立ち上がろうとする生命力が働くように、又、たえず誤またんとする力に対して、たえず正そうとする力が働くように常に油断しない心掛けが即ち成長してゆく秘訣、という教えなのでありましょうか。
 ともあれ、素直な心をもって広い視野に立ち、手伸しくのびのびと自らに与えられた事情、情実を受け入れて我まま勝手なき我の実現をめざすことこそ修養の本質であり、稽古の根幹をなすものではないでしょうか。

合同合宿を終えて 二

 今年も盛大に、且つ無事に合同合宿稽古を終えることができました。
 佐倉での唯一最大の行事であるこの合宿に皆様お一人お一人が中心となって結束された現実は、参加された各団体、個人の深く印象に残ることでありましょう。
 この合宿は日々の稽古の積み重ねの大切さを反省させられる場でもありました。
 人の思いのふれあいの楽しさを再認識させられる場でもありました。
 多くの一人一人に新らたな物語りが生まれた場でもあったことと思います。
 いのちの実現と追進のかたちはさまざまでありますが、「一は多を産み、多は一に帰す。」の教えの通り、合気道の技も人の心も固定されたものでなく一呼吸一呼吸生きているように思えます。
 何故ならばいのちは常に追進し、有るが故に有らしめようとするからであります。
 稽古の意味もそこにあるようにおもえます。
 合気道が、自然さと自由さを要件とする産霊の実現であるならば、一人一人が中心となって輝き多くの人達が一つになったこのような合宿は、合気道の何たるかを考える上でも貴重な場であったことは確かであります。
 皆様ありがとうございました。

  根ともなり幹とも葉とも現れて
  我とうものに目覚めてあらまし(古歌)

天晴れ

 「天晴れ あな面白 あな手伸し あな明け おけ」
 このコトバは天の岩戸を開いた八百萬の神々それぞれが持つ気分、清明心が弥栄のひとわらいとなって言葉となり一口同音に発せられたものと言い伝えられております。
 「天晴れ」とは晴れ晴れとした心。
 「あな面白」とは人間のもつ本質の輝き。
 「あな手伸し」とは伸び伸びと追進する有様。
 「あな明け」とは一切明白なこと。
 「おけ」とは意気込み。
 これらは理屈、ことあげの世界ではなく、全一たる気分の現われたもの、とかんながらの道は教えております。
 合気道の稽古に於ける一挙手、一投足、一息一息もこの教えを実践するものであり、この教えの営みでもあるように思えます。

合同合宿を終えて 一

 佐倉の最大のイベントが無事終わりました。
 皆様のお陰です。
 お礼を申し上げます。
 お礼といえば参加された各団体の方々からも心のこもった言葉をたくさんいただきました。
 その中から、軽井沢から参加された前朝日合気会々長の渋川義彦さんからのハガキを紹介いたします。
 裏面に佐久穂町千手院のオオヤマレンゲの美事な花を大写しにした小生宛のお手製ハガキでしたが以下の文面でありました。
 「佐倉の余韻が、途切れません。心と体の不思議を改めて考えさせられました。佐倉の皆さんの心のこもった準備と応対にも感謝いたします。いつ行っても佐倉は温ったかい。ありがとうございました。」
 小生一人に留めおくのはもったいないので渋川さんには無断ですが、披露させていただきました。
 他にもたくさんのメールやホームページの書き込みをいただいております。
 有難いことであります。
 昨年の合宿で初めて出逢った仲間、今年初めて参加された方との出逢い、なつかしい一年振りの人との再会、それぞれの想いはだれもが思う以上に貴重なものであります。
 なぜならば、そのことには気付きにくいからであります。
 元気な時には病気のことを気にしにくいように。
 参加された三人組の若手からは「来年迄待ちきれません。」という若人らしいハツラツとした想いが届きました。
 合気道は武道であることは確かですが、武道とは何か、稽古とは何なのか、何れにせよ「人の想い」から離れればそれは道にも稽古にもならないと思います。
 いろいろと考えさせられた楽しい合宿でありました。

言葉 二

 「人間は言葉、言葉は人間です」といった人がいます。
 石川九楊さんという書家であります。(「語る」石川九楊の世界、朝日新聞)。
 石川さんに限らずそのように思考し、本質を見定めようと創意工夫する人は多いと思います。
 先日の鹿島での合宿の折に渋川義彦さんから興味深い話を伺いました。
 それは最近「何げない生活」ということについて考えている、ということでありました。
 何げないと思えることの底に潜む世界に光を当てゝみたいということだと思われますがいつか又その時の話の続きを聞かせて頂きたいものであります。
 渋川さんも又日々思考し、物事の本質を見定めようと創意工夫する一人でありました。
 「故郷は出るもの、親は捨てるもの」と石川さんはいう。
 捨てる、ということばをそのまゝ受け容れるにはさすがに抵抗はありますが、厳しさと、優しさ、ということにしましても相矛盾する関係のハザマには限りない糸筋があるようにも思えます。
 愛語よく廻天の力あるを学べ、といわれた道元も愛語は愛心より起り、愛心は慈心を種子とせりと教えています。
 この種子を己れの心にまき、育て、花園を持つところに明るい言葉の源が産まれるのでありましょうか。
 言葉は命(ミコト、マコト)を源とするが故に行ないとなって外に顕われるものであります。
 即ちコトバはヒトでありヒトはコトバであるということに通じるわけであります。
 このことは行ないの本質を見定めるということについて大切なことであります。
 合気道におきましても内なる誠が外に現われるが故に、内なる誠を練って練って練り直して精進せよとの教えがあります。
 「言霊とは腹中にタギル血の姿をいう」とは、何げない生活になげかける一筋の光であると信じます。

藤沢秀行

 「藤沢でございます」袴姿に威儀を正した名誉棋聖藤沢秀行は「勝負と経営」と題されたテーマにやゝとまどいながらも訥々として飾らず、しかし本物のもつ深いその等身大の世界をあるがまゝに垣間見せてくれた。
 「私も皆さんも同じなんですヨ」と人に説く、道の深さに対する謙虚さ。
 「経済、経営にしても、何事によらず、よく解かるということ自体がおかしくはありませんか」と聴衆に問いかける。
 碁で大切なことは「いかなる変化にも対応できる力を養うこと」いかなる変化にも対応できること即ち「それが力」と語る。
 小学生の習字を「何故学校の先生はアレを直すのでしょうかネ」「とてもいい字だと思いますがネ」ドキッとする深さが伝わる。
 まるで生死の境がないようなあの迫力は一体どこから生まれるのでしょうか。
 時折コップの水を、極上の酒を楽しむように少しずつ口に運びながら語る人間、藤沢秀行。
 人が人をひきつけるその引力に圧倒される。
 講演の後の質問に「良い碁とは一体どのような碁なのでしょうか」とありました。
 これは講演の中で四国の御婦人で初級の方の碁を誉めた話についての質問でありました。
 良い碁とは「石が素直に自然にいく」ということです。と言われた。
 「現場が大切」という藤沢さんに「先生は部分と全体ということについてどのようにお考えでしょうか」とたずねさせて頂いた。
 ウンと肯かれた先生はたちどころに「大局観も細部も同じです。一目でわかることが必要、それが力というもの」と答えてくれました。
 碁を学ぶということは色々なことをいろいろな事から学ぶことなのだ、という藤沢秀行の世界が合気道の世界に重なった。

ヤジロベエ

 筑波大学の河辺さんという方が、以前新聞で「安定」ということについて、おわんの底にあるピンポン玉のように少し位刺激を与えても元へ戻る状況をいう、という意味のことをプラズマの話の中で触れていたことがありました。
 元へは戻らない状況を不安定と呼ぶ、ともいっておりました。
 ヨットの復元力や、ヤジロベエのバランスを想像するとわかり易いと思います。
 子供の頃慣れ親しんだヤジロベエにいたしましても、指の腹の上に乗った支点を中心にほんのわずかな刺激に対してユラユラと揺れて元に戻ろうとするあの感触があってこそヤジロベエがヤジロベエであるのだと思います。
 右と左の重さ、下向きに延びた腕の長さのこと、そしてそれにも増して大切なことは指の腹と支点の接触面の自由さ、がもたらせる安定の世界であると思います。
 固定しないことの大切さ、といえば重さを計るハカリについても同じことがいえるのではないでしょうか。
 フランスのグラム原器に少しづゝ誤差が生じているそうであります。
 仮りにその誤差を百万分の一グラムとしますと、その誤差はどのようにして計るのでしょうか。
 このような世界はともかくとして、ハカリの支点が錆びて固定していては一キログラムも十キログラムも同じ、といった極端なことにもなりかねません。
 合気道における日常の稽古にありましても自分と相手、右と左、前と後、上と下といった対象となる関係に対して揺れ動きながらも自律的に安定を求めるヤジロベエのように自由でありたいものであります。
 その為にも支点の錆びを落とす必要があります。
 お互い錆びを落として光ある明るい世界に身を置きたいものであります。

父と子と

 近頃いい話を聞きました。
 なまいき盛りの中学二年生の息子さんを持つ父親の話であります。
 とても心に残りましたので皆さんにも紹介させていただきます。
 反抗的な中二の息子は親と口を聞こうともしない。
 心配する母親には「放って置け」を繰り返していた。
 ある日「おやじ、小遣銭上げてくれ」ときた。
 「進学の勉強をせい」と一蹴した。
 翌朝、五時半から彼の新聞配達が始まった。
 豪雪の冬を休まずに続けた三年生の春、「修学旅行欠席届をもらったが…」と、担任が妻に尋ねた。
 思い当るものがあった。
 早暁、「ジョギング代わりにお前についていく」というと意外に拒否もせずニヤリとした。
 ニキロ先の新聞販売所から四十数軒配り終えるまでつき合って一週間、「おい修学旅行にいってこい。新聞は引き受けた」というと、冷たい霧の中で涙を隠す息子の、まだ幼さの残る丸い肩に満足の安堵を見た。(日本新聞協会ハガキエッセーコンテスト優秀作「十数年前の絆」)
 この短かい話の中に含まれる父と子の思いのさりげなさとそして深さに打たれました。
 以前、通勤の途上、京成佐倉駅上りホームで電車を待つ間、下りホームから老いた魚屋さんが魚をたくさん入れたブリキ製の大きな箱を担いで階段を昇る姿を時折みかけました。
 箱についた帯が肩にくい込むその姿から、遠い昔、持ち切れない程の新聞をかついた幼い頃の自分の姿が重りました。
 反抗するということ、受け容れるということ、父親の男らしさ、母親の女らしさということ、等を考えさせられました。
 合気道を学ぶということはこうした父と子と、といった縦の糸一本にしても単に「種」として意味を持つのでなく「いのちが生きる」のだ、ということを学ぶことにつながるように思えます。

声と音

 分け入っても 分け入っても 青い山
と詩った漂泊の俳人、種田山頭火。
 捨てても捨てても捨てきれぬ自分、払っても払っても払いきれぬ自分、徹底しても徹底しても徹底しきれぬ自分の心を正直にうたい続けた旅の俳人でもありました。
 生き方がそのまゝ作風となっている感があります。
 「生きているよろこびを知るならば生かされているありがたさを忘れてはならない。
 ありがたさがもったいなさとなるとき、そのときがいのちにぴったり触れた時だ。」というような意味のこともいっております。(山頭火「句と言葉」春陽堂)
 真に渇いた者であれば一滴の水もいのちの水となり、真に寂寥を知るものであれば木の葉の落ちる音がこころの奥深いところに響き届くことでありましょう。
 山頭火は五十三才位の頃でありましょうか、「音響を声と観られるようになった。」といっております。
 つまり、「音が心にとけるとき、心が音をとかすとき、それは音でなくして声となる。」
 さらに、「その新らしい声を聴き洩らすな。」といっております。
 よくいわれることでありますが、使命はいのちを使うこと、運命はいのちをはこぶこと、どちらも漠然としており、まるで偶然のようなことのように思えますがさにあらず、実に生々しい現実であろうと思います。
 いのちに関していえば、こころとからだが離れ得ぬのと同じであるからであります。
 音と心と、心と声と。
 物から生じる音が心の世界にふれて声となる。
 はたしてその結び目はいったいどこにあるのでしょうか。
 こころとからだの結び目はいったい何処にあるのでしょうか。
 合気道の稽古の眼目も実はこの点を明らかにする作業のように思えてなりません。
 いのちを使い、いのちを運び乍ら。

上達法

 以前、囲碁の上達法について関西棋院の橋本昌二さんが「交叉する線上にキチンと石を置くことができればそれだけで上達します。」といっていたことがありました。
 もちろん他にも詰碁や定石の勉強も上達には必要なのでありましょうが、まるで関係ないと思われた石の置き方について言及されていたのが印象的でありました。
 誠に示唆に富む言葉であると思います。
 将棋の世界でも座った時の座ぶとんのへこみの乱れ具合で形勢が分かるものだとも聞いたことがありました。
 ひとつひとつの所作がキチンとできるということは実は大変なことなのかも知れません。
 数々のタイトルを手中にして頂点を極めた感のある趙治勲さんが、「囲碁とっておき上達法」(日本棋院)の中で「狭さの中に広さがある。」という興味あることをいっております。
 内容は初心者向き、というのは表向きでありまして実は大変に含蓄のある本に思えてなりませんでした。
 通常は、十九路盤が使用されますが、九路、七路、五路、三路といった極小盤を紹介され、この中に含まれる筋と変化の多さに感嘆の声をあげています。
 やゝもすると、広さを単なるスペースとみがちな昨今にあって本質を学ぶ際の貴重な原点を教えられる思いがいたしました。
 ある日訪れた先で、さそわれるまゝに庭先におり立った時、さして広いとも思えないそのスペースに花は花らしく、草木は草木らしく実にのびのびとしておりとても豊かな気持にさせて頂いたことがありました。
 この家の方の草花に対する広さを超えた深い心づくしのようなものを感じさせられるひとときでありました。
 合気道の稽古にあっても例え極少の部分であれ、心の行き届いたキチンとした所作のひとつひとつが天地自然と合致するよろこびをかみしめてこそ上達してゆくものと思います。