佐倉の最大のイベントが無事終わりました。
皆様のお陰です。
お礼を申し上げます。
お礼といえば参加された各団体の方々からも心のこもった言葉をたくさんいただきました。
その中から、軽井沢から参加された前朝日合気会々長の渋川義彦さんからのハガキを紹介いたします。
裏面に佐久穂町千手院のオオヤマレンゲの美事な花を大写しにした小生宛のお手製ハガキでしたが以下の文面でありました。
「佐倉の余韻が、途切れません。心と体の不思議を改めて考えさせられました。佐倉の皆さんの心のこもった準備と応対にも感謝いたします。いつ行っても佐倉は温ったかい。ありがとうございました。」
小生一人に留めおくのはもったいないので渋川さんには無断ですが、披露させていただきました。
他にもたくさんのメールやホームページの書き込みをいただいております。
有難いことであります。
昨年の合宿で初めて出逢った仲間、今年初めて参加された方との出逢い、なつかしい一年振りの人との再会、それぞれの想いはだれもが思う以上に貴重なものであります。
なぜならば、そのことには気付きにくいからであります。
元気な時には病気のことを気にしにくいように。
参加された三人組の若手からは「来年迄待ちきれません。」という若人らしいハツラツとした想いが届きました。
合気道は武道であることは確かですが、武道とは何か、稽古とは何なのか、何れにせよ「人の想い」から離れればそれは道にも稽古にもならないと思います。
いろいろと考えさせられた楽しい合宿でありました。
言葉 二
「人間は言葉、言葉は人間です」といった人がいます。
石川九楊さんという書家であります。(「語る」石川九楊の世界、朝日新聞)。
石川さんに限らずそのように思考し、本質を見定めようと創意工夫する人は多いと思います。
先日の鹿島での合宿の折に渋川義彦さんから興味深い話を伺いました。
それは最近「何げない生活」ということについて考えている、ということでありました。
何げないと思えることの底に潜む世界に光を当てゝみたいということだと思われますがいつか又その時の話の続きを聞かせて頂きたいものであります。
渋川さんも又日々思考し、物事の本質を見定めようと創意工夫する一人でありました。
「故郷は出るもの、親は捨てるもの」と石川さんはいう。
捨てる、ということばをそのまゝ受け容れるにはさすがに抵抗はありますが、厳しさと、優しさ、ということにしましても相矛盾する関係のハザマには限りない糸筋があるようにも思えます。
愛語よく廻天の力あるを学べ、といわれた道元も愛語は愛心より起り、愛心は慈心を種子とせりと教えています。
この種子を己れの心にまき、育て、花園を持つところに明るい言葉の源が産まれるのでありましょうか。
言葉は命(ミコト、マコト)を源とするが故に行ないとなって外に顕われるものであります。
即ちコトバはヒトでありヒトはコトバであるということに通じるわけであります。
このことは行ないの本質を見定めるということについて大切なことであります。
合気道におきましても内なる誠が外に現われるが故に、内なる誠を練って練って練り直して精進せよとの教えがあります。
「言霊とは腹中にタギル血の姿をいう」とは、何げない生活になげかける一筋の光であると信じます。
藤沢秀行
「藤沢でございます」袴姿に威儀を正した名誉棋聖藤沢秀行は「勝負と経営」と題されたテーマにやゝとまどいながらも訥々として飾らず、しかし本物のもつ深いその等身大の世界をあるがまゝに垣間見せてくれた。
「私も皆さんも同じなんですヨ」と人に説く、道の深さに対する謙虚さ。
「経済、経営にしても、何事によらず、よく解かるということ自体がおかしくはありませんか」と聴衆に問いかける。
碁で大切なことは「いかなる変化にも対応できる力を養うこと」いかなる変化にも対応できること即ち「それが力」と語る。
小学生の習字を「何故学校の先生はアレを直すのでしょうかネ」「とてもいい字だと思いますがネ」ドキッとする深さが伝わる。
まるで生死の境がないようなあの迫力は一体どこから生まれるのでしょうか。
時折コップの水を、極上の酒を楽しむように少しずつ口に運びながら語る人間、藤沢秀行。
人が人をひきつけるその引力に圧倒される。
講演の後の質問に「良い碁とは一体どのような碁なのでしょうか」とありました。
これは講演の中で四国の御婦人で初級の方の碁を誉めた話についての質問でありました。
良い碁とは「石が素直に自然にいく」ということです。と言われた。
「現場が大切」という藤沢さんに「先生は部分と全体ということについてどのようにお考えでしょうか」とたずねさせて頂いた。
ウンと肯かれた先生はたちどころに「大局観も細部も同じです。一目でわかることが必要、それが力というもの」と答えてくれました。
碁を学ぶということは色々なことをいろいろな事から学ぶことなのだ、という藤沢秀行の世界が合気道の世界に重なった。
ヤジロベエ
筑波大学の河辺さんという方が、以前新聞で「安定」ということについて、おわんの底にあるピンポン玉のように少し位刺激を与えても元へ戻る状況をいう、という意味のことをプラズマの話の中で触れていたことがありました。
元へは戻らない状況を不安定と呼ぶ、ともいっておりました。
ヨットの復元力や、ヤジロベエのバランスを想像するとわかり易いと思います。
子供の頃慣れ親しんだヤジロベエにいたしましても、指の腹の上に乗った支点を中心にほんのわずかな刺激に対してユラユラと揺れて元に戻ろうとするあの感触があってこそヤジロベエがヤジロベエであるのだと思います。
右と左の重さ、下向きに延びた腕の長さのこと、そしてそれにも増して大切なことは指の腹と支点の接触面の自由さ、がもたらせる安定の世界であると思います。
固定しないことの大切さ、といえば重さを計るハカリについても同じことがいえるのではないでしょうか。
フランスのグラム原器に少しづゝ誤差が生じているそうであります。
仮りにその誤差を百万分の一グラムとしますと、その誤差はどのようにして計るのでしょうか。
このような世界はともかくとして、ハカリの支点が錆びて固定していては一キログラムも十キログラムも同じ、といった極端なことにもなりかねません。
合気道における日常の稽古にありましても自分と相手、右と左、前と後、上と下といった対象となる関係に対して揺れ動きながらも自律的に安定を求めるヤジロベエのように自由でありたいものであります。
その為にも支点の錆びを落とす必要があります。
お互い錆びを落として光ある明るい世界に身を置きたいものであります。
父と子と
近頃いい話を聞きました。
なまいき盛りの中学二年生の息子さんを持つ父親の話であります。
とても心に残りましたので皆さんにも紹介させていただきます。
反抗的な中二の息子は親と口を聞こうともしない。
心配する母親には「放って置け」を繰り返していた。
ある日「おやじ、小遣銭上げてくれ」ときた。
「進学の勉強をせい」と一蹴した。
翌朝、五時半から彼の新聞配達が始まった。
豪雪の冬を休まずに続けた三年生の春、「修学旅行欠席届をもらったが…」と、担任が妻に尋ねた。
思い当るものがあった。
早暁、「ジョギング代わりにお前についていく」というと意外に拒否もせずニヤリとした。
ニキロ先の新聞販売所から四十数軒配り終えるまでつき合って一週間、「おい修学旅行にいってこい。新聞は引き受けた」というと、冷たい霧の中で涙を隠す息子の、まだ幼さの残る丸い肩に満足の安堵を見た。(日本新聞協会ハガキエッセーコンテスト優秀作「十数年前の絆」)
この短かい話の中に含まれる父と子の思いのさりげなさとそして深さに打たれました。
以前、通勤の途上、京成佐倉駅上りホームで電車を待つ間、下りホームから老いた魚屋さんが魚をたくさん入れたブリキ製の大きな箱を担いで階段を昇る姿を時折みかけました。
箱についた帯が肩にくい込むその姿から、遠い昔、持ち切れない程の新聞をかついた幼い頃の自分の姿が重りました。
反抗するということ、受け容れるということ、父親の男らしさ、母親の女らしさということ、等を考えさせられました。
合気道を学ぶということはこうした父と子と、といった縦の糸一本にしても単に「種」として意味を持つのでなく「いのちが生きる」のだ、ということを学ぶことにつながるように思えます。
声と音
分け入っても 分け入っても 青い山
と詩った漂泊の俳人、種田山頭火。
捨てても捨てても捨てきれぬ自分、払っても払っても払いきれぬ自分、徹底しても徹底しても徹底しきれぬ自分の心を正直にうたい続けた旅の俳人でもありました。
生き方がそのまゝ作風となっている感があります。
「生きているよろこびを知るならば生かされているありがたさを忘れてはならない。
ありがたさがもったいなさとなるとき、そのときがいのちにぴったり触れた時だ。」というような意味のこともいっております。(山頭火「句と言葉」春陽堂)
真に渇いた者であれば一滴の水もいのちの水となり、真に寂寥を知るものであれば木の葉の落ちる音がこころの奥深いところに響き届くことでありましょう。
山頭火は五十三才位の頃でありましょうか、「音響を声と観られるようになった。」といっております。
つまり、「音が心にとけるとき、心が音をとかすとき、それは音でなくして声となる。」
さらに、「その新らしい声を聴き洩らすな。」といっております。
よくいわれることでありますが、使命はいのちを使うこと、運命はいのちをはこぶこと、どちらも漠然としており、まるで偶然のようなことのように思えますがさにあらず、実に生々しい現実であろうと思います。
いのちに関していえば、こころとからだが離れ得ぬのと同じであるからであります。
音と心と、心と声と。
物から生じる音が心の世界にふれて声となる。
はたしてその結び目はいったいどこにあるのでしょうか。
こころとからだの結び目はいったい何処にあるのでしょうか。
合気道の稽古の眼目も実はこの点を明らかにする作業のように思えてなりません。
いのちを使い、いのちを運び乍ら。
上達法
以前、囲碁の上達法について関西棋院の橋本昌二さんが「交叉する線上にキチンと石を置くことができればそれだけで上達します。」といっていたことがありました。
もちろん他にも詰碁や定石の勉強も上達には必要なのでありましょうが、まるで関係ないと思われた石の置き方について言及されていたのが印象的でありました。
誠に示唆に富む言葉であると思います。
将棋の世界でも座った時の座ぶとんのへこみの乱れ具合で形勢が分かるものだとも聞いたことがありました。
ひとつひとつの所作がキチンとできるということは実は大変なことなのかも知れません。
数々のタイトルを手中にして頂点を極めた感のある趙治勲さんが、「囲碁とっておき上達法」(日本棋院)の中で「狭さの中に広さがある。」という興味あることをいっております。
内容は初心者向き、というのは表向きでありまして実は大変に含蓄のある本に思えてなりませんでした。
通常は、十九路盤が使用されますが、九路、七路、五路、三路といった極小盤を紹介され、この中に含まれる筋と変化の多さに感嘆の声をあげています。
やゝもすると、広さを単なるスペースとみがちな昨今にあって本質を学ぶ際の貴重な原点を教えられる思いがいたしました。
ある日訪れた先で、さそわれるまゝに庭先におり立った時、さして広いとも思えないそのスペースに花は花らしく、草木は草木らしく実にのびのびとしておりとても豊かな気持にさせて頂いたことがありました。
この家の方の草花に対する広さを超えた深い心づくしのようなものを感じさせられるひとときでありました。
合気道の稽古にあっても例え極少の部分であれ、心の行き届いたキチンとした所作のひとつひとつが天地自然と合致するよろこびをかみしめてこそ上達してゆくものと思います。
たけむす
くづれゆく たけいけがきの かたわらに
さくらぎの木の ふとりゆくあり
ある日ふと足元にめをやれば、朽ち落ち掛る生垣の竹。
そのかたわらには両の掌に余る程にふとった桜の苗木。
十有余年の歳月の移り行くさまのあまりの確かさに思わず感じさせられた場面でありました。
うちにまことあればそとにあらわるといわれますが、くずれゆくことも、育ちゆくことも又真理というべきでありましょうか。
かたちという物事の表面が時と共に変化してゆくありようには浅く深く人の心にしみ入るものがあります。
そのことはとりもなおさず、うちなるものが外に表われて形がつくられ、うちなるものが変化することによってうつるということが生じるからであります。
武産の庭に立ちたや神々と
神楽舞いたやこの庭で
昨年の暮の納会で披露させていただいた詩であります。
道にすすむ者であれば誰れ彼れといわず心の底の深いところで希うところのものがあると思います。
汲めども尽きぬよろこびの泉の湧きいでることの理想と日々の稽古の現実はこれ程確かなものはない程に互にくい込み合っているものであると申しあげます。
志を同じくする者が互のうちなるまことを練りに練りあうことによって光輝く世界が実現される庭、このような庭に是非立ちたいものであります。
「合気道とは言霊の妙用である」という道の教えも又、うちなるまことがそとにあらわれるという「武産合気」の原理を示す大切な教えでもあります。
技術
バイオリニスト辻久子さんの言葉に「(自分は)音楽の神様のお告げを、みなさんに間違いなく伝える役をしているだけなんだと思います」とありました。
更に、「自分が弾いて客に聴かせているという意識がない程最近は心と技と体が一つになったと感じる」ともありました。(朝日新聞「ひと」欄)
サラサーテの名曲「チゴイネルワイゼン」の演奏だけでも三千回を超えるという六十年間バイオリン一筋の辻さんの精進のあとがうかがえる言葉であります。
技術というものが持つ性格に、物の名前や形を憶えておしまい、といった単純な面だけでなく、丁度食事や呼吸がものの命をつなぐ所作であるように、継続しながら修得して行くところがあることから深くこころとからだにかかわり合ってくるものであると思います。
ある意味で、技というものはこころとからだそのものといえるのかも知れません。
心身一如、彼我一体といった境地には何か尊い澄んだものを感じます。
それは修練の過程に於いて余ったところを捨てて、磨いてゆくといった浄化作用が働くからなのでありましょうか。
技術は自然の摂理の体現とも言えましょう。
それ故修得に際しては素直であるということが大切とされます。
その素直さにしましても、こころにも、からだにも求められるところであります。
又、熱いこころを持ち続けることも勿論大切なことであります。
熟するに従って条理が明らかにされてくることは修業する者にとって最大のよろこびであります。
それは創造の世界であるからであります。
しかし乍らこのことは数千回数万回と繰り返される反復のしかも一挙手一投足にていねいなこころの思いが尽くされ、積み重ねられ、養成されてこそ実現可能な世界であります。
合気道の技法の修得にしても同様であります。
手談
大岡信さんは「言葉は単なる言葉でありながら、深い意味で人間そのものである。」といっております。(朝日新聞)
日常かわされる言葉を単に言語とするだけでなく、発する人、受けとる人の奥底に通じる意志や体験といったものが響き合うところに意味があるのだということでありましょうか。
「言霊とは折り合いをつけながら自らの姿を整えること。」「言霊とは腹中にタギル血の姿を言う。」といった先人の解釈には傾聴に値するものがあります。
ちょうど布が切っても切っても端を生じるように言葉にも偏ることなく一切の端を含み持つといった中心の考え方が成り立つからであります。
この解釈を拡大いたしますと、人の声のみならず、行ないそのもの、あるいは自然界の現象といったことがらもことごとく調和を求める本体であるといった考え方に至ることも可能であります。
囲碁の世界には対局を別名「手談」とも言うそうであります。
盤上の石が、打ち手の意志をそのまゝ単的に表現されて言葉そのものになり切るからであります。
合気道の稽古にあっても、切られるところ、突かれるところを知ってこそ切ることも、突くこともできるといった要素があるように思います。
「合気とは言霊の妙用である。」という尊い教えがあります。
よくよく吟味すべきであります。
ともあれ、技の仕組の解明には困難に比例した分のよろこびが伴なうものであります。
このよろこびの庭に志を同じくする皆様と共に立ちたいものであります。
庭に立ちたや武産の
技のさきわうこの庭に
神楽舞いたや神々の
栖み集いたるこの庭で