近頃いい話を聞きました。
なまいき盛りの中学二年生の息子さんを持つ父親の話であります。
とても心に残りましたので皆さんにも紹介させていただきます。
反抗的な中二の息子は親と口を聞こうともしない。
心配する母親には「放って置け」を繰り返していた。
ある日「おやじ、小遣銭上げてくれ」ときた。
「進学の勉強をせい」と一蹴した。
翌朝、五時半から彼の新聞配達が始まった。
豪雪の冬を休まずに続けた三年生の春、「修学旅行欠席届をもらったが…」と、担任が妻に尋ねた。
思い当るものがあった。
早暁、「ジョギング代わりにお前についていく」というと意外に拒否もせずニヤリとした。
ニキロ先の新聞販売所から四十数軒配り終えるまでつき合って一週間、「おい修学旅行にいってこい。新聞は引き受けた」というと、冷たい霧の中で涙を隠す息子の、まだ幼さの残る丸い肩に満足の安堵を見た。(日本新聞協会ハガキエッセーコンテスト優秀作「十数年前の絆」)
この短かい話の中に含まれる父と子の思いのさりげなさとそして深さに打たれました。
以前、通勤の途上、京成佐倉駅上りホームで電車を待つ間、下りホームから老いた魚屋さんが魚をたくさん入れたブリキ製の大きな箱を担いで階段を昇る姿を時折みかけました。
箱についた帯が肩にくい込むその姿から、遠い昔、持ち切れない程の新聞をかついた幼い頃の自分の姿が重りました。
反抗するということ、受け容れるということ、父親の男らしさ、母親の女らしさということ、等を考えさせられました。
合気道を学ぶということはこうした父と子と、といった縦の糸一本にしても単に「種」として意味を持つのでなく「いのちが生きる」のだ、ということを学ぶことにつながるように思えます。