パラパラとめくった漢詩本の中に「芷蘭は深林に生ずるも、人無きを以って芳しがらずんば非ず」(荀子)とありました。
森の奥深く見る人がいないからといって芳香を放たないということはない、即ち人の目を気にすることなく常であれ、という教えであるとのことであります。
裏返せば人目に晒されてもなを変わらない程に貫き通せということでもありましょう。
芷蘭(しらん)がどの様な香りの花なのか、それこそ知らんのでありますが、一片の花を通じて生きることのいさぎよさとさわやかさの何たるかをおしえられる思いがいたします。
以前触れました君子蘭にしましても、凛と咲くその花の形の中に気品の何たるかを示す答えがある様に思えてなりません。
声なき声がほとばしり、形となることの素晴しさが身の廻りには充満していると思います。
物であれ、事であれ、形の本質ということについては一緒のように思えます。
理に合し、法に照らして筋道が通ることによって形は産まれ、造られてくるものと想像されます。
過日虎ノ門の金比羅宮で「中に誠あれば外に形わる(うちにまことあればそとにあらわる)」という言葉を目にして思わず深い喜びをかんじたことがありました。
誠の程はともかくとして、形は内から産まれてくるものだというところに共感を覚えたものであります。
大きな刺激のみに順応する心身であれば不都合この上もないことは容易に想像できるところであります。
わずかな声や光の変化を認めることも又大切なことといえましょう。
合気道の稽古にしましても、始めは形から入りますが、こうしたわずかな声や光のひびきを正確にとらえて、正しく形が産まれてくるように中なる誠そのものを少しづつ練って行くところに意味があると信じます。