「人はまことの源泉たれ。」と古人のおしえにあります通り、人はさわやかにしてたのしく、なつかしく有り難く思うこころそのままに生き生きといきぬくことができれば理想ではないでしょうか。
「まこと」とはこのように生きる人の「こころ」をいうのではないでしょうか。
礼に始まり、礼に終わるのは、ひとり武道の世界だけではないと思います。
「おじぎ」にいたしましても、対座する人を通じて、自他がこのようにかかわり合えることへの感謝そのままのまことが形に現れるものと信じます。
さらに興味深いことは生きとし生ける全ての人々に共通して、真なるもの、善なるもの、美なるものの存在を心良く思う気持に変わりがないという事実であります。
今迄にも度々触れてまいりましたが、「ことば」の働きにいたしましても、言葉が単に口から発せられる音声だけ、小手先だけのものでなく、事実とか、人の心の真なるもの、真理、法則そのままである故に大切とされるものと思います。
言葉はそれ自身がまことであるといわれる由縁でもあります。
このように自己を超越し、生かすところのちから、その真理、法則に添うために為すべき使命が即ち鍛錬であります。
鍛練とは自己の解放であります。
自己の解放とは本当の自分の発見であります。
本当の自分の発見とは、自分を含めたあらゆる存在を素直に認めるということだと思います。
これら「真理、法則」即ち「道」の存在から少しも外れることがないように心掛けるところに厳しさというものがあるのだと思います。
合気道の稽古にしても、単に形のある相手の存在を意識するものでなく、時間や、空間さえも同化させる程の勇気が必要であるとおもいます。