先月の天声人語に紹介されました、新開五月さんという方の話ですが、手話の活動を通じて二種類の反応を示す人々に気がついたそうであります。
「ボランティア活動をして偉いわね」と「あまりいい格好ばかりするな」。
どちらも「障害者になにかをしてあげる」という考え方の現われであると感じたそうであります。
「そのどちらでもなく、人と人とがわかり合えた時の幸福感、それだけでいっぱいなのです」。とありました。
人は認められることによって存在感も生まれ、必要とされていることに気付いた時、生きる希望が湧いてくるといったことは日々の生活の中で多くの人々が体験していることだと思います。
ことばの奥に潜む意味にはそのことばを発する本人の自覚し得ない、浅深、軽重、真偽といった部分も表現されるところにことばの持つ尊さ、不思議さが偲ぼれます。
ことばには音声によらないものがあると思います。
普通、ことばといえば意志が声帯を通った空気の振動として理解されますが、例えば充分に補給されて消化が間に合わぬ程の満腹にもかゝわらず食べ続けたり、休養をしたがっているのに休めない等といった、からだの内からの「ささやき」や「さけび声」といったことは真にことばそのものといった感があります。
それらを認めず、無視し続けることがいかに恐ろしいことであるかは万人の知るところでありましょう。
合気道にあっても、身体に現わされる技のハタラキは内なるマコトから発せられる即ちコトバのハタラキである様に思います。
その内なるマコトを更にマコトたらしめるのが即ち日々の稽古であり、したがって稽古は誠の実現の過程であり乍ら同時にその時その時の誠の実現をする目的でもあるといえましょう。
おろそかに出来ぬ由縁であります。