心を鍛える

 ある時テレビで放映された仏像を造る仏師の方のことばが印象に残った。
 「仏像は彫ったり造ったりするものでなく、木の中に(本来)ある仏を引き出すばかり」とあった。
 子弟の教育についてもこれ程ピッタリとした言葉は無いかも知れないし、なる程、としたり顔で聞き流すにはもったいない内容である。
 大晦日に煮る黒豆にしても、例え素材に丹波の黒豆を使っていても料理をする人の心と技術が伴わなげれば味わう人が理想とする味は引き出されない。
 引き出す人の技術そのものも大切だ。
 音楽の世界でもこのことは顕著である。
 例えば、ピアニストの中村紘子さんが「ピアノは心で弾くものだ。その心のくもりをぬぐうのが即ち練習であり技術である。したがって心を鍛えなげればならない。」という意味のことをいっておられたのを出張中の機中で読んだことがある。
 又世界的にトップレベルのフルート奏者の女性のことばであったと記憶するが、「技術は心を表現するものであるから(表現される)心そのものの存在は常に気がかりだ。」と言われていたことを思い出す。
 これらのことは、実は心とか、技術とかの関係を通じて、音や形が生まれてくることの本質がやはり大自然の心と一致順応することの素晴らしさを実証しているものと思う。
 「心を鍛える」ことは同じ意味で、合気道に於いても大切である。
 未熟な自分の「我」(相手の存在を無視する部分)というものを「他」に押し付ければ、その対象が檜木であれ、ピアノであれ、フルートであれ、人であれ、まるで「こだま」の様に正直に返ってきて心は安まらない。
 自他が一体となる感じは円満にしてなつかしい思いがする。