有る

 ひとは誰しも真であり善であり美なることを尊ぶ。これは極めて自然なことで理屈ではない。「有り難くなつかしく思う心」を有する故と思う。
 子供にしても善い所を認めてもらって誉められれば気分が良くなる。例えれば、それは君子蘭の花芽がまさに延びんとするあの凛としたすがすがしさを「認める方」も「認められる方」も大自然のあるべき姿に合致、順応していることに他ならないのと一緒であろう。
 大人にしても病気でいるよりは健康でありたいと念じ、お金を増やしたり、家を建てたり、勉強したりし乍ら日々を生活することは逆にみれば絶えず油断なく病気にならないように留意し、浪費を避けて日々を勤め、破壊よりも建設の道を選び将来への夢を繋ごうと思うことも「真善美」の実現を心良く思うあらわれであると思う。
 このことは「有る」ということが単に「有る」だけではなく「有るが故にいよいよ有らしめる心」、つまり「這えば起て、起てば歩めの親心」と同じことで、この身の手足にしても命にしても、存在するものの一切が「用のあるところにいよいよ働いて行く」ところに「有る」ということの価値は認められるものと思う。
 「産霊(むすび)とは有らしむる、善からしむる、美しからしむる、有り難くなつかしむる作用。即ち一切にますますそのよろしき所を与える作用をいう」とあります。
 日々の生活は有限、相対の中にあって、矛盾や不合理に綾なされているのが現実ですが、不思議なことにその中から無限、絶対合理の世界の存在が感じられ、信じられてきます。合気道に於いてもこの「むすび」ということが大切とされますが心身を通じて明らかにして行くことは容易ではない。