稽古という言葉には、古きをたずね、慕い、深く学ぶという意味があるとされています。
従って、稽古の不足ということは単に量から見た不足だけでなく、学ぶ事、省みる事、心を届かせる事に於いて浅く、不充分であるということ、とも言えると思います。
もとより何かに打ち込む場合は、質に転化する程の量、そのものも大切ではありますが、人にはそれぞれの環境があって、それらの個々の事情々実を無視するわけにはまいりません。
与えられた天分を自らの範囲内で充分に発揮しつつ、徐々に、成長して行けばそれはそれで良いと思います。
いずれにせよ、稽古ということは自らの心身を通じて、物事の道理を明らかにして行くこと、広く云えば自他の共存共栄、調和への意識そのものを鍛えることであると思います。
自然界の現象、例えば引力とか、音の世界とか、光の世界とか、あるいは人体の自律作用等は人為を超えていることは誰でも理解できますが、人の行為には通常の場合、意識が伴います。
何かを行なおうとする人の心の働き方、意識のもち方によっていかに結果に於いて大きく違ってくるかは毎日の新聞やテレビで伝えられる通りであります。
案外わかりにくく、気が付きにくいのが自分自身のことであると思います。
人は誰しも、愛より発露された意識と、言葉を産む心を鍛え、更にその心が常に伸び伸びとしている、というふうにありたいものです。
合気道には「勝つ為の稽古でなく、克っている為の稽古をする」という味わうべき教えがあります。