教と育

 何時の頃からか、人は競争原理に目覚め、学校や企業はいうに及ばず、今やその導入は社会全体の風潮となっており、そのことでかえって喜怒哀楽の大きな種をかかえる結果となっております。
 無論、努力奮闘の結果、見事選ばれた人達はそれなりの価値はあるのですが、それが単に将来の待遇や生活のためだけをめざすものであるとすると味けなく、又勿体ないことであるといわざるを得ません。
 このことは比較、競争の行なわれる実際の手段の一つとして、知識や学力の多寡を基準とする方法がとられることから、本来大切とされる気分とか、いのちとかを含めた、くり返され、積み重ねられ、育ち、養われるといった世界よりも、一過性又はそれに関連する思考法を偏重せざるを得ないという現実が優先されていることを物語っているものと思います。
 人の幸せの何たるかはむつかしいことであると思いますが、旅を例にとりましても、希まぬままに行かねばならぬ旅があり、又、望んでも行けぬ旅もあるように、不足を思う心が即ち不幸で、心楽しければ即ち幸いであるという程単純なものではないのでしょうが、少なくとも、幸、不幸はその心を有する人の感じ方にあるともいえましょう。
 一度覚えれば用の足りる技術や知識の世界では、立場上、教える側はややもすると日向のドブ板の様にソリ反り、反対に一度教わってしまえば用が足りる故に教える側の存在に意味を覚えなくなる生徒も出てこないとはいえないでありましょう。
 技術や道具も大切ではありますがそれらを使いこなす本人の心の有りようを育てることは更に大切で有ります。
 気分とか、いのちとかを含めた、くり返され、積み重ねられ、育ち、養われてゆくおこないの世界、合気道は正にそのおこないの世界の武道であります。