生活というからには活き活きと生きたいものであります。
誰しも生きていない生活人はいないわけで、生活しているということに関しては全ての人が実践の最中の体感者でもあるわけでありますので、この意味に於いて文字やおしえのことはともかくとして理屈でなくやはり説明のつかないいのちの世界の延長であるともいえると思います。
生きるということにいたしましても唯永く生きさえすれば良いというだけでなく、それぞれの成長、環境に見合った自然な要求に従っていよいよ前進し子供は子供なり、青年は青年なり、大人は大人なりに各自のさまざまな事情々実に合わせて変化成長してゆくことが即ちいのちの要求であるものと思います。
その結果として単一でない深みのある世の中での実生活を体験できるということもいえるのだと思います。
くるまのトランクに大きな穴が孔いて車を買い換えたいが子供の進学の問題もあって費用の念出のメドがつかない、毎日の仕事が際限もなく続きいのちをすり減らす思いである、対人関係もわずらわしい、等々見渡せば各自それこそさまざまな実感としての生活が展開されていると思います。
しかし乍ら考えてみますとこれらの実感、事情が実は生活にハリを持たせ、各自をして成長させるタネともなっているとはいえないでしょうか。
いのもあるものは例外なく過去、現在、未来の三界をつらぬくものであります。
生活も又、いのちの世界の延長である限り例外ではありません。
過去を離れず、今を大切にし、未来あることを信じ、光とともに生きるべきでありましょう。
合気道の教えにも「天地万有は一家のごとく、一身のごとく過去、現在、未来は我らの生命の呼吸として人の世の化育を教える。」とあります。