どろどろとうごめく器官律しつつ
  明らかに澄みて固体は立てり
             石川恭子
 医師の歌であります。くずれ落ちようとする身をささえているものが何であるかをおしえてくれる歌であります。
 この歌を通じて感じる事が一つあります。
 それはどろどろとした器官が単に細胞でできた器ということだけでなく、ひとのこころそのもののように感じたことであります。
 律するということが単純な妥協や我慢だけではないということも想像できますが、時には渾沌として、まさにどろどろとうごめくことのなかから何かが生まれてくることも信じたいものであります。
 画家の中川一政さんは誠にきびしいことをいっています。
 それは「拓かれたと思った瞬間、実はそれ以外の見方ができなくなっている。」という意味の言葉でありますが、実に興味深いことであります。
 理解しにくい部分もありますが、物とか事、身とか心、といったものの境を外そうとする作業にたずさわった者にのみ修得できる境地なのかも知れません。
 内から外に向かうものがあれば、外から捕えて内なるいのちを表現しようとする方法もあると思います。
 絵とか写真とかがこの範躊に入るのかも知れません。
 どろどろとしていようが、明るく澄んでいようが、内からであろうが、外からであろうが、その境についての興味はつきません。
 合気道は時間と空間がかけ合わされて動きとなります。
 この働きのもととなるものはいうまでもなく心身でありますが、心身そのものの境はいったいどこにあるのでしょうか。
 「顕幽一如の真諦を知れ」という教えを思い起こします。