理解

  かぜとなりたやはつなつの  かぜとなりたや
  かのひとのまえにはだかり  かのひとのうしろよりふく
  はつなつのはつなつの  かぜとなりたや
 「棟方志功はこの一点を見て版画を志した。」と川上澄生のこの素晴らしい詩の紹介が「折々のうた」(朝日新聞)にありました。
 同じ詩をみても人の受取り方にはさまざまなものがあると思います。
 生々しい体験には生命に限界があるように範囲の限界がありますが、この一見有限と思われる生命も実に脈々と受げ継がれてきたように無限の方向に進もうとする優れた性質を有しているのも又人のおもしろい一面であると思います。
 心身ということについて考えさせられる由縁でありましょうか。
 人の素晴らしいところは否定や誤解があったとしてもそれらを乗り越えて、まるで体内の血流を助ける血管が血流そのものゝ血液によって柔軟さを保ってゆけるように、人には今の状態を少しでも広がり深め続けたいと願う性質を有しているものと信じます。
 今迄と、今と、そして今からと、この三世を貫き通す考え方こそ理解されて然るべき原理の一つのように思います。
 常に自らの感性を固定することなく自由に解き放ち乍ら、広げ深め、未熟は未熟なり、練達は練達なりに理解して行なえばそれでよいと思います。
 合気道に於げる原理や技法の理解ということについても、自明の原理や法則のようなものゝ働きを日々の稽古を通じてしっかりと己れの心身に喰込ませることが即ち理解ということに連がることであると思います。
 しかし乍らこの現実がいかに生々しいものであるかは同志の皆さんにはご存知の通りであります。