俳句の細見綾子さんという方が、朝日新聞の「余白を語る」欄に紹介されておりました。
俳句の初心の人に、「ものをひねくっちゃいかん、純真にみたまゝを表現しなさい。」とよく言われるそうであります。
一見つまらなそうな写生にもその人の力量によって深さ、浅さがあります。といっております。
この細見さんが、自ら求めて引っぱり寄せてきたものが、年をとるにしたがって向こうがわたしをみつけてくれるような気がしだしたといゝ、朝起きても、鳥が鳴いても、花が咲いても、新鮮になって。といっております。
これらのことばには生きて行く意味のようなものを教えられる思いがいたします。
自己をはこびて万法を修証するを迷とし、万法すすみて自己を修証するは悟りなり。と示された道元師の世界をまのあたりにする思いであります。
歌手の都はるみさんが、カムバックの後、楽しそうに歌えることについて、「以前は歌に追われ、廻りを気にし乍ら歌わされていたのが、最近は歌が自分を選んでくれて、歌わせてくれている様に思えて楽しく歌えるようになりました。」という意味のことをいっております。
これも細見さん同様に素晴らしい心境であると思います。
ことばは単に人の音声だけではなく実在するものゝ全てが有する愛護の精神の働き掛けのやりとりであるような気がします。
合気道にあっても切られる所、打たれる所を知って初めて切ることも打つことも可能になり、締めるべくして締め、ゆるめるべくしてゆるめて行く呼吸が技の肝要かと思います。
相手の問いかけをいかに素直に、純真に聞くことができるか、いいかえれば稽古とはその為の修練の場でありましょう。
素晴らしい心境も力量なしにはあり得ないことはいう迄もありません。