新聞に素晴らしい話が紹介されておりました。
アルバイトで動物の世話をしていた青年が正式な職員になろうとして東京都の職員採用試験を受けたところ失敗し、沈みきっている折に日頃世話をしていたスマトラ産の雌のカワウソに慰められた時の話であります。
肩に登ったカワウソの小さな手が青年の髪の毛を分け、毛づくろいをし、丸い鼻面でほおを押し付けて何時間も親愛の情を示してくれたそうであります。
されるまゝの青年は其の後も仕事を続けて後に上野動物園の園長さんになったとありました。(朝日新聞「天声人語」)
カワウソは人の言葉を理解したのでありましょうか。
「人の心理を読んでいたとしか思えません。」と述懐された中川志郎園長の言われる通り、言葉の持つ本来の意味が誠(真事)の現われであることを思えばこのことも容易に納得できる世界であります。
中川青年の日頃の愛情がカワウソを鏡として映しだされたとも思える話でありました。
ひとつのことを永く続けて深く打ち込むこと自体は素晴らしいことでありますが、そのことに慣れてくると「拍手を受けることを期待する卑しさがでてくる。」といった意味のことを彫刻家の佐藤忠良さんも言っております。
慣れが誠意を超えることに問題があるということなのでありましょう。
相手を受け入れ、相手に受け容れられてこそ素晴らしさが認識されることから狎れることをいましめられた言葉だと思います。
合気道も又素晴らしい自己実現の世界であります。
理に適ってこそ、好きであればこそ、誠意があってこそ殊更意識することもなく遥かな道程の一歩一歩を進むことができるからであります。
その意味において稽古自体が日々の目的となっているところにも素晴らしさを感じます。