「まるで玄米と闘っているみたい」。
長い間の不摂生から内臓を弱め、健康に留意する様になり、最近始めた小生の玄米食での夕食のひとときに思わずもらした家内のひとことである。
ご存知の通り玄米は籾穀を除いただけの精米していない米の為、圧力釜で炊いても、更によく充分に噛み砕かないと飲み込む事ができない。
故にまるで不便さを味わう様に一粒一粒をつぶし乍ら時間をかけての食事となることからのひとことであった。
「闘う」というとややもすると「敵対する」というふうに意識が働き勝ちだが、この場合は様子が違い、むしろ「味方する」というふうにも受け取れる。
つまり玄米食でいえば、良く噛んで食し、充分に養分を吸収できれば本人も勝ち、玄米もその天分を活かし切ることができたという意味に於いて勝ちを得る。
病と闘う、自己と闘う、等々についてもいえることでしょうが、闘うということはその対象に対して逃げも隠れもせずに堂々と立ち向かい、むしろじっくりと取り組み、味わう様に相手となり、「お互いを活かし切る」ということに通じるものと思う。
囲碁の世界などでも、もちろん相手があって、勝負を競い合う芸なのでしょうが、その闘いは常に調和を求め合う事を基本として成立ち、正しきが故に自らに打ち克つ、という具合になっているものと思う。
こうしてみると、「闘う」ということは、まるで「差し込む朝日の様に、あるいは引力にいざなわれる水の様に、倦まず、弛まず、といった力のみなぎる様子。」と、思えて来る。
合気道には試合はない。
合気道に於いて闘いというものがあるとすればその帰結は常に自らに在り、自他を含めた大自然との調和そのものを意味する。
「和」とは裏返せば「大いなる闘い」を意味するものと信じる。