「道というのは、丁度、体内に血が巡っているように、神の大み心と全く一つになって離れず、大み心を実際に行じていくことをいうのである。
 神の大み心を少しでも離れたら、それは道にはならない。」合気道開祖、植芝盛平翁のことばであります。
 道といえば、画家である林武の著書、「国語の建設」という本の中に興味深いことがありました。
 それは、「みち」は「みうち」(真中)から転じ、道になり路となった。と、示されていたことであります。
 道ということの本義が、真中(みうち)、即ち、真事(まこと)、命(みこと)に連なるという理解のしかたに本来の意味があるというところに我が意を得た思いがいたしました。
 会報第三号で申し上げました、「真中ということは片寄ることなく一切の端を含み持つ。」ということ、又、第十四号にありました、「人はまことの源泉たれ。」といった古人の教えが改めて思い起こされます。
 これらの教えには、言葉や意識の奥には存在し、行じている貴重な世界のあることを示しているように思います。
 日常生活にあっては、自我の意識が行ないの舵取りをするために、いいかげんな言動になり勝ちであります。
 しかし乍ら、行ないのさなかにあること、そのことは、泥中から蓮華が咲き、食がいのちの鎖となるように、種々ある事情々実があってこそ、花も実もある人生と云えはしないでしょうか。
 冒頭の「道とは神の大み心を実際に行じてゆくこと。」と示された言葉には、人の生き方への一つの指針を与えてくれるものがあるように思えてなりません。
 このような考え方に思いを深くさせて載ける合気道と、その同志の存在に対して改めて感謝する次第であります。