泥人一如

 皆さんは陶器等の焼き物に興味をお持ちでしょうか。
 岡山県は伊部(いんべ)の里に駅前から各窯元が思い思いの作品を並べた店が続く静かな情緒ある焼き物の町があります。
 昔、この町で摂氏二千度の高温焼成炉の昇温試験に立合ったことがありました。
 加熱には灯油に液体酸素を添加しましたが、火炎と炉壁と粘土(人造ドロマイト)の三味が一体となって透明な白色に輝くさまは今だに鮮明に記憶に残っております。
 二週間の滞在期間のうち火炎を見続けたのは順調に昇温し出してから後二十時間程だったと思いますがとても貴重な体験でありました。
 マッチの燃え滓の先に墨を塗って水彩絵具で着色する技法の絵を教わったのはこの間世話になった常盤屋という旅館の二人の小さな娘さん達からでありました。
 帰途記念に分けて頂いた備前焼きの二個のぐい呑みは今でも手元に大切に保管し、愛用しております。
 地元の人に案内していただいた古備前の登窯跡や、桃の木々とその花々が織りなすあざやかさは正に桃源郷という言葉そのまゝの里のことなど今尚印象に深いものがあります。
 其の後久しく訪ねる機会もないまゝでありましたが、それでも幾度かの訪問の折、窯元興楽園の御主人木村純雄さん(陶名長十郎友敬)におめにかゝつたことがありました。
 氏の作品の一つである「健康徳利」は皆様にもお勧めの逸品であります。
 木村さんが折々に書き留めた随筆集「窯場の朝」の中に「己が粘土(つち)か粘土(つち)が己か」(泥人一如)という一節がありました。
 土と一体、土が自分を受け入れてくれる感じを楽しむ陶工のよろこびがそこに感じられました。
 合気道の世界にあっても、彼我一体、自他一如にこそ理想とするよろこびや楽しさといったものがあるものと信じます。

年 頭

 皆さま明けましておめでとうございます。
 昨年は国内外にあっても激動の年、といわれましたが、今年はどのような年でありましょうか。
 さまざまな社会の現象も元をただせばすなわち人の思いや行ないから生じるものでありましょうが、廻りが動けばなおさら自己をしっかりとさせる必要があるということもいえると思います。
 年頭にあたって、それぞれの所信を自からの内に明らかにして行くことはおおげさでないにしても一殊さわやかな緊張感を伴うものと思いますがいかがなものでしょうか。
 身一つの自分というものをしっかりとみつめ、大いなる可能性のうちのほんの少しづつでも地道に行なうことによって新たに信じられるところの自己の発見があったとしたらそれはそれで評価に値する結果であると思います。
 創造ということばがありますが、創造というと何かを造り産むという意味合いにとれますが考えてみますとこれらのことも受け入れる自己の側の器や感性といったものとおおいに関係しているということもいえるのではないでしょうか。
 脱皮し成長して行く過程においては例え正しいと信じる部分であっても捨て去る程の覚悟も場合によっては必要であると思います。
 いずれにしても日々に、新たに、行なうことによってのみ脱皮も成長も期待されるものと思います。
 日々の生活は現実でありますから理想ばかりも追ってはいられないでしょうが、そうはいってもこの大自然の中にその摂理とともに共存共栄していることも誰一人として否定し得ない現実でもあります。
 明るく楽しいそしてさわやかな一年でありたいと心から念じます。
 合気道は武道でありますが、このことを実現させる為の実践の道でもあるといわれております。
 今年も一年間よろしくお願い申し上げます。

 パラパラとめくった漢詩本の中に「芷蘭は深林に生ずるも、人無きを以って芳しがらずんば非ず」(荀子)とありました。
 森の奥深く見る人がいないからといって芳香を放たないということはない、即ち人の目を気にすることなく常であれ、という教えであるとのことであります。
 裏返せば人目に晒されてもなを変わらない程に貫き通せということでもありましょう。
 芷蘭(しらん)がどの様な香りの花なのか、それこそ知らんのでありますが、一片の花を通じて生きることのいさぎよさとさわやかさの何たるかをおしえられる思いがいたします。
 以前触れました君子蘭にしましても、凛と咲くその花の形の中に気品の何たるかを示す答えがある様に思えてなりません。
 声なき声がほとばしり、形となることの素晴しさが身の廻りには充満していると思います。
 物であれ、事であれ、形の本質ということについては一緒のように思えます。
 理に合し、法に照らして筋道が通ることによって形は産まれ、造られてくるものと想像されます。
 過日虎ノ門の金比羅宮で「中に誠あれば外に形わる(うちにまことあればそとにあらわる)」という言葉を目にして思わず深い喜びをかんじたことがありました。
 誠の程はともかくとして、形は内から産まれてくるものだというところに共感を覚えたものであります。
 大きな刺激のみに順応する心身であれば不都合この上もないことは容易に想像できるところであります。
 わずかな声や光の変化を認めることも又大切なことといえましょう。
 合気道の稽古にしましても、始めは形から入りますが、こうしたわずかな声や光のひびきを正確にとらえて、正しく形が産まれてくるように中なる誠そのものを少しづつ練って行くところに意味があると信じます。

力量の世界

 針の穴を駱駝が通る。ということを聞いたことがあります。
 もちろん実際に通れるものではありませんが現実にあの小さな針の穴をらくだが通れるなどとは考えただけでも楽しくなります。
 人の考え方の斬新さには誇りすら感じさせられるものがあります。
 川上哲治さん辛王貞治さんクラスの人になるとボールがベース上で止まって見え、且つ糸の縫い目迄見えたと聞いたことがあります。
 針の穴にしても、ボールにしても凄い話とは思いますがいずれも実感として実現させるだけの力量を有していればこそであり、当然といえばそれ迄のことであります。
 時速二百キロメートルで疾走する車に同じ速度で並走することができれば相対的に止まっていると感じることができるからであり、復元力を持たない不備は限りなくその不合理を拡大されて行く可能性があるからであります。
 しかし乍ら、時速二百キロメートルで並走すること、即ち相手と同じ速度に合わせるということは容易なことではありません。
 又、自他の不備、不合理を感じること自体力量を要するものであり、更に不合理を合理ならしめる為の力量となれば一朝一夕に成るものとも思えません。
 三種の神器とされる鏡、剣、玉の三つにしましてもそれぞれ調和を感じとる力、調和を実現させる力、調和そのものに価値を認める力を象徴しているものと解釈いたします。
 何キロの重さを持ち上げるというようなベクトル的な力は理解し易いものでありますが、変化し生き続けるいのちのちからの世界にあっては油断ならないものがあります。
 いずれにしましても、バランスはアンバランスの存在によってこそ感じることができるものであります。
 正しきを正しきまゝにとどめずますます正しかれと願う力量の養成が合気道の稽古の中にはあるように思えてなりません。

声よ 光よ

  声よ光よ 澄み澄み亘れ
  細むとも 撓むとも
  底なき底の声ならば
  先なき先の先までも
  照らす光の声となれ  (春 風)
 世俗のかせから解き放たれた自分が新らたな創造の世界に入って行くことはこの上もなく楽しいことであります。
 新年を迎えて皆様は如何にあるべきか、どのようにありたいか、さまぎまなことを思い浮かべておられることと思います。
 小生も近年、時につけ折に触れ感じることがいくつかありますが、なかでも印象的なことは、人の動作の基本の内には意志と言葉が語り掛ける「声」の部分があることに気付いたことであります。
 部分というよりも全てといっても言過ぎではないかも知れません。
 ことばは「心とからだを結ぶ」といわれておりますが正にその通りのように思います。
 動作が人の意志の現われであるとすれば目にみることのできない幽の世界がことばとなり声となって顕われてきたものと考えられるからであります。
 「行くぞ」「どうぞ」、「来るな」「いやだ」、といった具合に意志が声となり、動作となって現われてくるからであります。
 顕幽、表裏、呼吸といった世界、相対する世界、この中にあって始めて人は座ることも、立つことも、歩くこともできることを知るべきであります。
 光を考え続げたアインシュタイン博士の「単純なものほど美しい」といったことばは合気道にも通じるものがあると思います。
 即ち、底なき底の声を、先なき先に現わす為にも余った部分を切り捨て、濁った部分を浄化して行くといった作業が日々の稽古を通じて行われているからであります。
 今年も良い年でありますように。

理解とことば

 先月の天声人語に紹介されました、新開五月さんという方の話ですが、手話の活動を通じて二種類の反応を示す人々に気がついたそうであります。
 「ボランティア活動をして偉いわね」と「あまりいい格好ばかりするな」。
 どちらも「障害者になにかをしてあげる」という考え方の現われであると感じたそうであります。
 「そのどちらでもなく、人と人とがわかり合えた時の幸福感、それだけでいっぱいなのです」。とありました。
 人は認められることによって存在感も生まれ、必要とされていることに気付いた時、生きる希望が湧いてくるといったことは日々の生活の中で多くの人々が体験していることだと思います。
 ことばの奥に潜む意味にはそのことばを発する本人の自覚し得ない、浅深、軽重、真偽といった部分も表現されるところにことばの持つ尊さ、不思議さが偲ぼれます。
 ことばには音声によらないものがあると思います。
 普通、ことばといえば意志が声帯を通った空気の振動として理解されますが、例えば充分に補給されて消化が間に合わぬ程の満腹にもかゝわらず食べ続けたり、休養をしたがっているのに休めない等といった、からだの内からの「ささやき」や「さけび声」といったことは真にことばそのものといった感があります。
 それらを認めず、無視し続けることがいかに恐ろしいことであるかは万人の知るところでありましょう。
 合気道にあっても、身体に現わされる技のハタラキは内なるマコトから発せられる即ちコトバのハタラキである様に思います。
 その内なるマコトを更にマコトたらしめるのが即ち日々の稽古であり、したがって稽古は誠の実現の過程であり乍ら同時にその時その時の誠の実現をする目的でもあるといえましょう。
 おろそかに出来ぬ由縁であります。

問いかけ

 俳句の細見綾子さんという方が、朝日新聞の「余白を語る」欄に紹介されておりました。
 俳句の初心の人に、「ものをひねくっちゃいかん、純真にみたまゝを表現しなさい。」とよく言われるそうであります。
 一見つまらなそうな写生にもその人の力量によって深さ、浅さがあります。といっております。
 この細見さんが、自ら求めて引っぱり寄せてきたものが、年をとるにしたがって向こうがわたしをみつけてくれるような気がしだしたといゝ、朝起きても、鳥が鳴いても、花が咲いても、新鮮になって。といっております。
 これらのことばには生きて行く意味のようなものを教えられる思いがいたします。
 自己をはこびて万法を修証するを迷とし、万法すすみて自己を修証するは悟りなり。と示された道元師の世界をまのあたりにする思いであります。
 歌手の都はるみさんが、カムバックの後、楽しそうに歌えることについて、「以前は歌に追われ、廻りを気にし乍ら歌わされていたのが、最近は歌が自分を選んでくれて、歌わせてくれている様に思えて楽しく歌えるようになりました。」という意味のことをいっております。
 これも細見さん同様に素晴らしい心境であると思います。
 ことばは単に人の音声だけではなく実在するものゝ全てが有する愛護の精神の働き掛けのやりとりであるような気がします。
 合気道にあっても切られる所、打たれる所を知って初めて切ることも打つことも可能になり、締めるべくして締め、ゆるめるべくしてゆるめて行く呼吸が技の肝要かと思います。
 相手の問いかけをいかに素直に、純真に聞くことができるか、いいかえれば稽古とはその為の修練の場でありましょう。
 素晴らしい心境も力量なしにはあり得ないことはいう迄もありません。

理解

  かぜとなりたやはつなつの  かぜとなりたや
  かのひとのまえにはだかり  かのひとのうしろよりふく
  はつなつのはつなつの  かぜとなりたや
 「棟方志功はこの一点を見て版画を志した。」と川上澄生のこの素晴らしい詩の紹介が「折々のうた」(朝日新聞)にありました。
 同じ詩をみても人の受取り方にはさまざまなものがあると思います。
 生々しい体験には生命に限界があるように範囲の限界がありますが、この一見有限と思われる生命も実に脈々と受げ継がれてきたように無限の方向に進もうとする優れた性質を有しているのも又人のおもしろい一面であると思います。
 心身ということについて考えさせられる由縁でありましょうか。
 人の素晴らしいところは否定や誤解があったとしてもそれらを乗り越えて、まるで体内の血流を助ける血管が血流そのものゝ血液によって柔軟さを保ってゆけるように、人には今の状態を少しでも広がり深め続けたいと願う性質を有しているものと信じます。
 今迄と、今と、そして今からと、この三世を貫き通す考え方こそ理解されて然るべき原理の一つのように思います。
 常に自らの感性を固定することなく自由に解き放ち乍ら、広げ深め、未熟は未熟なり、練達は練達なりに理解して行なえばそれでよいと思います。
 合気道に於げる原理や技法の理解ということについても、自明の原理や法則のようなものゝ働きを日々の稽古を通じてしっかりと己れの心身に喰込ませることが即ち理解ということに連がることであると思います。
 しかし乍らこの現実がいかに生々しいものであるかは同志の皆さんにはご存知の通りであります。

心の太鼓

 将棋の金子金五郎さんは、「我身を忘れて没入する程の愛がなければ上達することはできない。」といっておりました。
 プロの世界の話ではありますが、芸の上に限らず、上達とか深さ、強さを追進して行こうとするならば当然のことであろうと思います。
 愛の何たるかはわかりませんが、我身を忘れることができる程打ち込めることそのことがすでに愛の世界といえるかも知れません。
 金子さんは更に「心と技が別々であれば強くなれないし、手を読むこともスムーズには行かず、駒の動きと我が心の対立が否定されて純粋となる。
 そんな時は他人がどういおうと将棋に夢中だ。」(この心あながちに切なるもの。晩聲社)といっております。
 つまりこの場合は盤面と自分とが交流し、感応し合う世界をいっているのでありますが、このことは人の行動の中の基本となる大切な世界の一つであると思います。
 目に見え、手に触れることができるこの世の実在する物の全てに、過去と現在と未来の三世があって、更にそのものが生命を有し、現在あるいのちの全てが過去から成り立つことから感謝の念も生じ、現在はそのまま未来への希望の姿であると考えられはしないでしょうか。
 刻々と移る現在のさまざまな事情々実が過去の心の栄養として自己を生長させる知恵が人にはあると思います。
 人はそれぞれ心に太鼓を有していると思います。
 その太鼓を打つ人、打たれて響くその響きが山彦となって打つ人の琴線に触れる時、いいようのない打ち震える程の感動を呼ぶ事は体験したもののみが味わうことのできるよろこびの世界であります。
 合気道の世界にあっても、現わされる技は触れる人の心の太鼓を響かせるに充分な真の力を有するものでありたいと思います。

矛盾反対

 三浦綾子さんという作家の本を読んでみました。
 その「愛すること信ずること」(講談社現代新書)という本の中にキラキラと光る三浦さんの考え方の深さに教えられることが多くありました。
 中でも「人間の理解というものは、小さな会話のつみ重ねの中に生まれていくものではないだろうか。」ということがありました。
 そして、「どんな小さな会話でも、やはりその人間の人格に咲いた花のようなものだ。」とあり、言葉の働きに関する部分に興味を感じました。
 熱心なキリスト教の信者である夫君、三浦光世氏とその妻綾子女史のたあいのない日常のなにげないことばのやりとりから、善きにつけ悪しきにつけ、新しい発見を重ねて行くことによって相手と自分の違いを自覚し、かえってそれぞれの個がハッキリ浮かび上がることによって尊敬しあえるようなことから、いかに一体感をもった関係であっても、人格は個々であるという考え方に至るその過程に共鳴を覚えました。
 古来からの教えにも、「執われず、排斥せず。」とあります。
 つまり、ものごとが成り立つということは、常に反対矛盾ということがあってこそ成り立つということであり、例えば崩れ落ちようとする体にしても、引力に逆らうことによって歩くことも立つこともできるようなものであります。
 考えるということにしても、いろいろと心配し、考え、反対矛盾を受け入れ転化してこそ纏って行くようなものであります。
 人に、「より善かれ、より美しかれ。」と思う気持があるのも、「崩れるよりは立とう、壊すよりは造ろう。」とするところに意味を感じるからだと思います。
 合気道にしても、本来のあり方を明らかにしようとする体の働きを通して反対矛盾ということの意味を勉強しているような気がいたします。